伝記
第4代チェスターフィールド伯爵フィリップ・ドーマー・スタンホープは、グレートブリテン王国の政治家であり、外交官、著述家である。1694年9月22日にロンドンで生まれ、1773年3月24日に没した。北部担当国務大臣などを歴任し、才人として広く賞賛された。
第3代伯爵フィリップ・スタンホープの子として生まれ、父が1726年に死ぬまではスタンホープ卿の儀礼称号を使った。1708年に母が死去してからは、主に母方の祖母ハリファックス侯爵夫人に育てられた。ケンブリッジ大学で言語と演説を学んだが、1年ほどで中退した。貴族としての教育を終えるため、大陸ヨーロッパへグランドツアーに出て、古典古代とルネサンスの文化に触れ、上流社会の人々とも交流した。旅の最中にアン女王が死去し、ジョージ1世が即位したことで政治家への道が開け、すぐに帰国した。ジェームズ・スタンホープの後見のもと、ホイッグ党の一員として国王の廷臣となった。1715年に庶民院議員に当選し、ジェームズ・バトラーの弾劾の審議で処女演説をしたが、成人まであと6週間なので発言できず、500ポンドの罰金を払う必要があると指摘された。彼は一礼して議場を出て、大陸へ向かったという。
パリ滞在中には、フランスで計画されたジャコバイトの陰謀の情報を本国政府に提供した。1716年に帰国して庶民院議員に復帰し、機転のきく論客として知られた。1723年に国王親衛隊の隊長に選ばれ、1725年にバス勲章が復活した際は、授与を打診されたが辞退した。1726年に父が死ぬと第4代チェスターフィールド伯爵となり、貴族院に移った。庶民院での演説は上品だが力に欠けるといわれたが、貴族院ではその価値が認められた。1728年にジョージ2世から、ハーグ駐在大使として派遣され、温和な機転と言葉の器用さを生かして働いた。1730年にガーター勲章を授与され、ウォルポールの信頼も得た。1731年にはウィーン条約の締結を成功させ、英墺同盟にこぎつけた。1732年にはフランス人の家庭教師との間に庶子が生まれ、この子が、のちの『息子に与える書簡』の宛先となった。1733年にウォルシンガム女伯爵ペトロニラと結婚した。
ウォルポール内閣を貴族院で支持したが、盲目的な忠誠ではなかった。物品税法案に反対したためウォルポールに罷免され、野党に回った。1741年に抗議書に署名したのち、療養のためブリュッセルでヴォルテールを、パリでモンテスキューらを訪ねた。1743年にはジェフリー・ブロードボトムの筆名でパンフレットを書き始め、ジョージ2世にはその辛辣な攻撃で嫌われた。再びハーグ大使となってオランダにオーストリア継承戦争への参戦を説得し、成功して、1745年1月にアイルランド総督となった。汚職を抑え、学校や工場を設立し、ダブリンの人々にフェニックス・パークへの立ち入りを許して、フェニックス記念碑を設置した。1746年に北部担当国務大臣となり、1748年に辞任した。ジョージ2世から提示された公爵の爵位は辞退した。1751年にはグレゴリオ暦を採用させ、新年を1月1日と定めた。
1755年、サミュエル・ジョンソンの『辞書』をめぐって論争が起こった。ジョンソンは手紙で、パトロンと芸術家の関係を鋭く扱ったが、伯爵は怒らず、その言葉遣いに感動したという。1768年に最愛の息子が死去し、遠戚のフィリップ・スタンホープを養子にして相続人とした。1773年3月24日にロンドンの邸宅で死去した。
同じ年に亡くなった人物
- フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ザイトリッツ (1773年没)
- Manuel Pinto da Fonseca (1773年)
- アメデエ・フランソワ・フレジール (1773年没)
- イスマーイール3世 (1773年)
- ピョートル・サルトイコフ (1773年)
同じ地域に関係する人物
- ゲオルク・エーレット (1770年没)
- ヘンリー・パーセル (1695年没)
- ジョン・ニュートン (1807年没)
- ジョン・ホルト (歌手) (2014年没)
- アウグスト・ザレスキ (1972年没)