伝記
ハーリス・ブン・ヒッリザ・アル=ヤシュクリーは、イスラーム以前のアラビアの詩人である。6世紀のバクル族の出身で、580年頃に没したとされる。イスラーム以前の有名な七つの詩、ムアッラカートの一つを作った人物として知られるが、生涯の詳細はほとんど分かっていない。キリスト教徒のバクル・ブン・ワーイル族に属し、ハンセン病を患っていたといわれる。高貴な生まれの戦士だったとも伝えられる。
そのムアッラカートが作られた経緯は、次のように語られる。タグリブ族の若者が何人か砂漠で死んだことから、タグリブ族とバクル族のあいだに争いが生じた。バクル族の人々が、王に命じられた遠征の際にタグリブ族の者を水場に近づけず、その結果、死なせたともいわれる。償いの要求が実らなかったため、双方はイラク南部のヒーラの王、アムル・ブン・ヒンドに裁定を求めた。タグリブ族は自分たちの王子アムル・ブン・クルスームを立てて訴えさせ、クルスームは第六のムアッラカートを朗誦した。ところが彼とバクル族の代弁者ヌウマーンのあいだで口論が起こり、王は二人を退けて、ハーリスにバクル族の代弁者を務めるよう求めた。そこでハーリスが朗誦したのが、第七のムアッラカートである。
このときハーリスは老人で、ハンセン病を患っていたため、幕の後ろから詩を朗誦しなければならなかったという。別の伝えでは、幕の後ろで即興で詠んだこの詩の美しさに感嘆したアムル・ブン・クルスームが、称賛のしるしとして幕を上げさせたとされる。詩の中でハーリスは、自らの部族の主張を王の立場に巧みに結びつけた。これに対して相手方のクルスームは、自分たちの独立と部族の力を主張して、王の機嫌を損ねたという。ハーリスは、ヒーラの王たち、とりわけアムル・ブン・ヒンドのもとに出入りしていた。
この詩は、おおむね嘆願であり、王アムルへの賛辞も織り込まれている。それでも冒頭は、失われた恋への悔恨と、ラクダに乗って駆ける描写という、カスィーダの通例の形で始まる。韻律はハフィーフである。詩の中でハーリスは、自分の部族の人々がイムルウルカイスを、長く苦しんだ枷から解き放ったと述べてもいる。ハーリスのほかの詩は、わずかな断片しか残っていない。
同じ年に亡くなった人物
- カッシオドルス (580年代没)
- ブラガの聖マルティン (580年)
- エフェソスのヨアンネス (580年(推定))
- キュロス1世 (580年代没)
- アウドヴェラ (580年没)
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