HISTORICAL PERSON · 584年没

キルペリク1世

クロタール1世の末子でソワソン王。兄弟と王国を分割し、王妃ガルスヴィントの殺害をめぐりアウストラシア王シギベルト1世と対立した。

生涯
584年没
死亡地
フランス共和国(セーヌ=エ=マルヌ県 / シェル)
出生地
—
出典
世界地図
フランス共和国(セーヌ=エ=マルヌ県)

伝記

キルペリク1世は、メロヴィング朝フランク王クロタール1世の末子で、561年から584年までソワソンの王(ネウストリア王)を務めた人物である。クローヴィスの孫にあたる。生年は539年とされることが多いが、525年から534年の間とする説、525年から527年とする説、537年頃とする説もあり、はっきりしない。母はクロタールの二番目の妃アレグンドで、他の三人の兄弟とは異母兄弟の関係にあった。キルペリクという名は古フランク語の名をフランス語化した形で、トゥールのグレゴリウスらのラテン語文献ではキルペリクスと書かれる。

クローヴィスの死後の511年に王国は四つに分かれ、その後、クロタールが兄弟のなかで最後の生き残りとして、558年にフランク王国を再統一していた。561年、コンピエーニュ近郊のキュイーズでクロタールが没すると、ソワソンでの葬儀が終わるや、キルペリクはただちに宮廷のあったブレーヌへ向かい、父の蓄えた財宝を没収して、近隣に住む従士の首領たちに分け与えた。戦士たちは彼を王と呼び、キルペリクはパリを占領したが、他の兄弟三人、すなわちシギベルト、グントラム、カリベルトと妥協し、くじ引きで王国を分けることにした。キルペリクは、父の領地であったソワソンを得た。

567年に長兄カリベルトが死ぬと、パリの三分の一と、リモージュ、カオール、ボルドー、ベアルン、ビゴールの諸都市、ピレネー地方を相続した。この年、西ゴート王アタナギルドの娘ガルスヴィントと結婚したが、翌568年、ガルスヴィントは寝室でキルペリクの指図を受けた腹心に絞殺された。キルペリクはすぐにフレデグンドと再婚し、生涯で三度結婚している。ガルスヴィントの妹ブルンヒルドは、兄シギベルト1世(アウストラシア王)の妃であったから、兄は「血の復讐」をフランク人の習慣どおり求めた。もう一人の兄グントラム(ブルグント王)が仲裁に入り、大民会がサリカ法によって、上記の五都市をブルンヒルドの所有とする決定を下した。

キルペリクはこれに不服で、573年、アウストラシア領のトゥールとポワティエへ息子クローヴィスの軍を侵攻させた。内戦は二年にわたって続き、キルペリクの刺客がシギベルトを暗殺して終わった。妃フレデグンドとブルンヒルドの対立も重なり、この「王家の抗争」は、613年、キルペリクとフレデグンドの唯一生き残った息子がブルンヒルドとその子孫に勝利するまで続いた。

キルペリクは、権力が野心的な貴族に握られて崩れていく前に、臣下に対して強権的に統治した最後のメロヴィング朝の王の一人であった。治世の大半は兄弟、なかでも570年代前半のシギベルトとの争いに費やされた。トゥールのグレゴリウスは『フランク人の歴史』で彼を否定的に描いている。当時のフランク人の間では、父が家長として家族の婚姻の可否を決め、公の場で行う格の高い妻との結婚のほかに、私的に結ぶ第二の妻との結びつきも行われ、どの妻の子も相続では平等であった。複数の妻をもつ習慣は、一夫一婦を守るキリスト教徒には混乱を招き、妾や愛人と見なされることがあったという。

なおもアウストラシアをねらい続けたが、584年9月のある夕方、狩猟から帰ったところを刺客に殺され、殺害地はシェルとされる。下手人は侍従エベルルフと宣言され、その所領は没収された。

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