伝記
光明天皇は、1322年1月11日(元亨元年12月23日)に今小路殿で生まれ、1380年7月26日(康暦2年6月24日)に崩御した北朝の天皇である。諱は豊仁といい、後伏見天皇の第九皇子で、母は西園寺公衡の娘の寧子である。翌1323年2月13日に親王宣下を受けて豊仁と名づけられた。即位によって北朝が成立したため北朝最初の天皇にあたるが、明治以降は兄の光厳天皇が北朝の初代と扱われ、現在の皇統譜では光明は第2代とされる。
後醍醐天皇の建武の新政から離反した足利尊氏は、後醍醐に廃位されていた持明院統の光厳上皇と手を組み、湊川の戦いで後醍醐の軍に勝った。1336年に尊氏が京都に入ると、後醍醐は比叡山延暦寺へ逃れた。9月20日(旧暦8月15日)、尊氏の要請を受けた治天の君の光厳上皇が院宣を出し、豊仁を践祚させた。三種の神器のない即位であり、後鳥羽天皇が後白河法皇の院宣で即位した先例に従ったものである。光明は兄光厳の猶子とされ、光厳が院政を始めた。のちに後醍醐は尊氏と和睦して神器と称するものを光明側に引き渡し、光明を唯一の天皇と認めさせられた形で幽閉された。1337年1月23日(建武3年12月21日)、吉野へ逃れた後醍醐は自らの退位と光明の即位をともに否認し、南北朝の体制が成立した。後醍醐は、北朝へ渡した神器は偽物だと称したが、偽物を渡してそれが通るとは考えにくいとされる。
光厳の院政のもとで、光明にめぼしい業績はないが、有職故実、芸術、学問を学ぶことに励み、政局への判断には潔癖といえるほど関与しなかった。兄の光厳とは非常に仲がよく、いつも一緒にいることを好んだといい、光厳法皇の葬儀にも出席したという。学問の師である唐橋公時が亡くなったときは、幼いころから教えを受けた恩を述べて悲しみ、先例を破って宮中で三日間の物音を止めさせた。日記の『光明天皇宸記』には、民のために雨が止むよう祈ったことや、乱世に身分の上下を問わず八朔の贈り物で散財する人々を批判した記事が見える。1348年11月18日(貞和4年10月27日)、光厳の第一皇子の崇光天皇に譲位した。
1351年、足利氏の内紛である観応の擾乱をきっかけに足利尊氏が南朝に降り、崇光天皇は廃され、南朝による正平一統が行われた。北朝の神器が接収されると、南朝はその神器で内侍所御神楽を行い、光明上皇と崇光天皇に尊号を贈った。しかし光明は3年前に崇光から尊号を受けており、これは北朝のしたことを一切認めない南朝の宣言であったとされる。この日、光明上皇は出家し、光厳上皇はこれを「御迷惑」と非難したという。翌1352年閏2月、南朝の軍が足利義詮を追って京都を取り戻した際、光明は光厳上皇、崇光上皇、皇太子直仁親王とともに捕らえられ、大和国賀名生に軟禁された。1354年4月には河内の金剛寺に移され、塔頭の観蔵院を行宮とされた。
1355年9月14日、光明だけが一足早く解放されて京都に返された。帰京後は落髪して仏道に入り、伏見の保安寺、深草の金剛寿院、大光明寺、長谷寺などを巡って修行したという。1380年に長谷寺で崩御した。60歳であった。陵は、京都市伏見区桃山町泰長老にある大光明寺陵で、崇光天皇陵と同じ区域にある。皇女に長照院殿と法華寺の長老になった者、皇子に禅僧の周尊がいる。
同じ年に亡くなった人物
- マルグリット・ド・ブラバン (フランドル伯妃) (1380年没)
- ママイ (キヤト部) (1380年没)
- Nizamuddin Ahmed Pasha (1380年)
- インカ・ロカ (1380年)
- マヌイル・カンダクジノス (1380年没)