伝記
マリア・テレジアは、1717年5月13日に生まれ、1780年11月29日に没したオーストリア女大公であり、ハンガリー女王、ボヘミア女王でもある。在位は1740年から1780年。神聖ローマ皇帝カール6世の娘で、夫フランツ1世の皇后かつ共同統治者として、実質的な女帝として君臨したが、正式な称号は皇帝ではなく神聖ローマ皇后であった。オーストリア系ハプスブルク家の男系最後の君主にあたる。
1717年、カール6世と皇后エリーザベト・クリスティーネの長女として生まれた。両親は誕生を喜び、ヨルダン川の水で洗礼を受けさせ、マリアツェルの教会に黄金の子供像を奉納した。母ゆずりの美貌をもつ「小さなレースル」は市民に人気があった。ハプスブルク家はサリカ法に基づく男系相続を定めていたが、兄が早世し、男子が生まれないまま、成人した子は彼女と妹マリア・アンナだけだったため、後継者問題が表面化した。縁組の候補にはバイエルンやプロイセン王太子の名も挙がったが、ハプスブルク家と縁の深いロレーヌ家のフランツ・シュテファンが選ばれた。6歳のときに15歳のフランツと出会い、憧れはやがて愛情に変わったと、イギリス大使が書き残している。1736年2月12日にアウグスティーナ教会で挙式した。当時としては珍しい恋愛結婚であった。フランツはフランス王ルイ15世の理解を得るためロレーヌ公国を割譲し、代わりにトスカーナ大公の地位を得た。カール6世は国事詔書を出して、各国に娘の相続を認めさせたが、女子は皇帝になれないため帝位は娘婿に就ける考えで、男児の孫の誕生を夢見て、娘には政治教育を施さなかった。
1740年10月20日にカール6世が急死すると、周辺諸国は相続を認めず、オーストリア継承戦争(1740年から1748年)が起こった。彼女は23歳で、第4子を妊娠中だったうえ、政治教育も受けていなかった。各国の大使は無知と報告したが、イギリスだけが非凡の才を注意した。12月16日、プロイセンのフリードリヒ2世がシュレージエンに侵攻し、さらにバイエルン選帝侯カール・アルブレヒトも敵に回った。1741年3月に待望の男児ヨーゼフが生まれたが、4月にモルヴィッツの戦いで大敗し、フランスもプロイセンに加勢した。四面楚歌の中、東方のハンガリーに救いを求め、夫と子らを伴ってプレスブルクに赴き、6月25日にハンガリー女王として即位した。9月には幼いヨーゼフを抱いて議会で演説し、数か月の折衝の末、ハンガリーは「我々は我が血と生命を女王に捧げる」と誓った。1742年にはプロイセンと一時休戦し、シュレージエンの割譲を認めざるを得なかったが、フランス・バイエルン軍はプラハから撤退し、1743年5月12日にボヘミア女王として戴冠した。フリードリヒ2世は、今のハプスブルク家は男性が統治しているが、その男性が女性なのだと評した。1745年、カール・アルブレヒト(皇帝カール7世)が没し、9月に夫フランツ・シュテファンが皇帝に選ばれた。同年のドレスデン条約でプロイセンのシュレージエン領有を承認し、戦争は1748年のアーヘンの和約で終わった。
のちにシュレージエンの奪還を目指して、内政と軍の改革を進め、外交ではカウニッツを登用してフランスに接近した。1756年のヴェルサイユ条約で両国は同盟し、ロシアのエリザヴェータ女帝、ポンパドゥール夫人とともに、プロイセン包囲網は「3枚のペチコート作戦」とも呼ばれる。同年に始まった七年戦争では、1759年のクネルスドルフの戦いで優勢に立ったが、資金難に陥っていった。
同じ年に亡くなった人物
- Ibrahim Hakki Erzurumi (1780年)
- Nicolas Joseph Laurent Gilbert (1780年)
- エルンスト・フリードリヒ3世 (ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公) (1780年没)
- ルイス・メレンデス (1780年没)
- ヨハン・ルートヴィヒ・クレープス (1780年没)
同じ地域に関係する人物
- マルガレーテ・フォン・ティロル (1369年没)
- ポーラ・ウェセリー (2000年没)
- Ernst, Baron von Feuchtersleben (1849年没)
- ヨハンナ・ガブリエーラ・フォン・エスターライヒ (1762年没)
- グスタフ・マーラー (1911年没)