伝記
用明天皇(ようめいてんのう)は、日本の第31代天皇である。生年は不詳で、『日本書紀』の記す同母妹の推古天皇の生年(554年)や、ほかに12人もいる同母の兄弟姉妹の存在から、530年代後半から551年ごろの生まれと推定されるにとどまる。在位は敏達天皇14年(585年)9月5日から用明天皇2年(587年)4月9日までで、西暦では585年10月3日から587年5月21日にあたるとされる。和風諡号は『日本書紀』では橘豊日天皇、『古事記』では橘豊日命という。漢風諡号の「用明」は、歴代の天皇と同様に淡海三船が名づけたとされる。諱は池辺皇子といい、即位前には大兄皇子とも呼ばれた。
欽明天皇の第四皇子で、母は蘇我稲目の娘の堅塩媛である。同母妹に推古天皇がいる。皇后は穴穂部間人皇女である。二人のあいだの第二皇子が厩戸皇子、すなわち聖徳太子で、同母妹の推古天皇の皇太子・摂政となった。第四皇子の来目皇子は征新羅大将軍となり、第五皇子の殖栗皇子は蜷淵真人の祖、第六皇子の茨田皇子もいた。嬪の石寸名は蘇我稲目の娘で、田目皇子を産んだ。妃の広子は葛城直磐村の娘ともいわれ、当麻皇子(征新羅将軍。当麻公・当麻真人の祖)と、伊勢斎宮となった酢香手姫皇女を産んだ。また、高向王の祖父とされ、高向王は宝女王(のちの皇極天皇・斉明天皇)の最初の夫である。
都は磐余池辺雙槻宮に置かれた。『日本書紀』によれば、この宮は5世紀前半に履中天皇が造った磐余池のほとりに建てられた。所在地には奈良県桜井市阿部や同市池之内などの説があったが、2011年に天香久山の北東数百メートルの橿原市東池尻町の発掘現場で、古代の堤の跡と、その上の大型建物跡が見つかった。この宮である可能性が高いと報じられた。大連と大臣は、物部守屋と蘇我馬子が敏達天皇の代からそのまま引き継いだ。
敏達天皇の崩御を受けて即位した。蘇我稲目の孫でもあり、敏達天皇と違って崇仏派で仏法を重んじたため、実質的に王朝で仏教を公認したことになり、それが後の推古天皇以降の仏教隆盛につながったとされる。一方、危機感を抱いた廃仏派の筆頭の物部守屋は、欽明天皇の皇子の一人の穴穂部皇子と通じていた。在位が短く大きな政策の変更はなかったが、仏教を支持したことは保守的な神道派との緊張を生んだ。天皇は天然痘のため、在位2年足らずの用明天皇2年4月9日(『古事記』では4月15日)に崩御した。宝算は36、41、48、67、69など諸説ある。崩御後、守屋と穴穂部皇子は皇位を奪おうとして失敗した。病死とされながらも、この事件と在位の短さから、二人に暗殺されたと推測する説もある。明治3年(1870年)に仲恭天皇と弘文天皇が追贈されるまで、在位期間が最も短い天皇だった。
『日本書紀』では、崩御後の7月21日に磐余池上陵に葬られ、推古天皇元年(593年)9月に河内磯長陵に改葬されたとする。『古事記』では科長中陵に葬られたとある。現在の陵は、宮内庁により大阪府南河内郡太子町の河内磯長原陵に治定されており、遺跡名は春日向山古墳、一辺約60メートルの方墳である。皇霊殿でも他の歴代天皇・皇族とともに祀られている。嫡流の子孫である山背大兄王らは、皇極天皇2年(643年)に断絶した。『新唐書』は、『隋書』にある俀王の多利思比孤を用明天皇とする。法隆寺は天皇の病気平癒のため聖徳太子が建立を誓ったことに始まるとする説があり、江戸時代には近松門左衛門が浄瑠璃『用明天皇職人鑑』を発表した。