伝記
ティトゥス・ヘルミニウス・アクィリヌスは、共和政ローマ初期の政治家・軍人である。紀元前506年に執政官(コンスル)を務めたが、名を知られるのは、クルシウム王ラルス・ポルセンナの攻撃からスブリキウス橋を守った一人としてであり、前498年に没した。ヘルミニウス氏族は、共和政初期に活躍した貴族系の氏族である。ローマ人はこの氏族をエトルリア系とみなしており、前448年の執政官ラルス・ヘルミニウス・コリティネサヌスのように、エトルリア系の個人名を用いた数少ない氏族の一つであった。ただし、橋をめぐる伝承では、ヘルミニウスはサビニ系を代表する人物とされている。
前509年、第7代のローマ王タルクィニウス・スペルブスが追放されると、クルシウム王ポルセンナは、タルクィニウスを復位させるか、自分が王位について、ローマを支配しようと考えた。翌前508年、ポルセンナはローマへ兵を進め、ヤニクルムの丘を含むティベリス川の西岸を占領し、続いて市内へ通じる木造のスブリキウス橋へ向かった。ローマ軍は川の東岸へ退き、工兵が橋を落とす作業を始めた。しかし、プブリウス・ホラティウス・コクレス、スプリウス・ラルキウス・ルフス、そしてヘルミニウスの3人は西岸に踏みとどまり、クルシウム軍と戦った。歴史家ニーブールは、この3人を古代ローマを構成した3つの部族の代表とみなした。ホラティウスはラテン人、ヘルミニウスはサビニ人、ラルキウスはエトルリア人を表すという。
橋はたいへん狭く、守る3人と一度に戦える敵は、せいぜい数人だった。伝説によれば、3人は橋が崩れる寸前まで戦い、ホラティウスが他の二人を先に退かせて、最後まで残った。橋が落ちるのを見届けたホラティウスは、川に飛び込んだ。その結末には諸説あり、多くは泳ぎ渡ったとするが、ポリュビオスは川の中で死んだとする。のちにクルシウム軍がローマを包囲したときにも、ヘルミニウスとラルキウスは再び登場し、執政官プブリウス・ウァレリウス・プブリコラが仕掛けた、エトルリアの襲撃部隊を捕らえる作戦に加わったという。
前506年、ヘルミニウスは、橋を共に守ったラルキウスとともに執政官に就いた。在任中に特に重要な出来事は起こっていない。ニーブールは、執政官一覧の1年の空白(おそらくポルセンナがローマを支配した期間)を埋めるために、二人の名があとから挿入されたのではないかと考えている。後任の執政官たちは、タルクィニウスの復位を認めないという条件で、ポルセンナと講和した。
前498年(一説には前496年)、ローマとラテン人の間に戦争が起こった。ラテン側の司令官は、トゥスクルムの王子でタルクィニウスの娘婿であるオクタウィウス・マミリウスであった。ローマは独裁官にアウルス・ポストゥミウス・アルブス・レギッレンシス、騎兵長官にティトゥス・アエブティウス・ヘルウァを任じ、ヘルミニウスも将軍として出征した。両軍はレギッルス湖の近くで激突した。アエブティウスとマミリウスは馬上で戦って、ともに重傷を負い、いったん退いたマミリウスは、亡命ローマ人の部隊が突破されそうになるのを見て戦場に戻った。これを見つけたヘルミニウスは突進し、リウィウスによれば、その怒りはアエブティウスよりはるかに激しかった。マミリウスの腹を突いて討ち取ったが、甲冑を剥ぎ取ろうとしたとき投げ槍を受け、後方に運ばれて手当てを受けたものの、傷がもとで世を去った。橋での奮戦は、マコーリーの『古代ローマ詩歌集』にも歌われている。
同じ年に亡くなった人物
- アミュンタス1世 (紀元前498年没)
- クレアンデル (ゲラの僭主) (紀元前498年没)
- シュロスのペレキュデース (紀元前 498年)
同じ地域に関係する人物
- マッシモ・ジロッティ (2003年没)
- Giovanni Coppa (2016年没)
- Carlo Grano (1976年没)
- インノケンティウス8世 (ローマ教皇) (1492年没)
- アレッサンドロ・アルガルディ (1654年没)