伝記
インノケンティウス8世は、1432年にジェノヴァで生まれたローマ教皇で、本名をジョヴァンニ・バッティスタ・チーボといい、在位は1484年から1492年である。父はジェノヴァの古い家柄の出身で、ナポリ王国の副王を務めた後、カリストゥス3世の時代のローマで元老院議員となった。母はテオドリーナ・デ・マーリという。若い日をナポリ王国の宮廷で過ごし、カプアの大聖堂の参事会員に任じられたが、1458年にアルフォンソ王が没した後、ジェノヴァ大司教との軋轢から参事会員を辞し、パドヴァ、次いでローマで教育を受けた。
ローマで司祭となり、ニコラウス5世の異母弟にあたるカランドニーニ枢機卿の随員になった。パウルス2世の下で1467年にサヴォナ司教となり、1472年にはモルフェッタの司教座に替わった。1473年、シクストゥス4世の甥ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ(後のユリウス2世)の後押しで枢機卿に選ばれた。1484年のコンクラーヴェは党派の争いに終始し、街には暴徒があふれたという。ヴェネツィア出身のバルボ枢機卿の当選を防ぐため、デッラ・ローヴェレとボルジアが枢機卿たちを回り、聖職禄の約束で票を集めたとされ、チーボは8月29日にシクストゥス4世の後を継いで教皇となった。
教皇になると、キリスト教国にトルコ討伐の義軍を呼びかけたが実を結ばず、ナポリ王フェルディナンド1世との長い対立が最大の障害となった。1485年には貴族の反乱が起こり、教皇はこれを支持し、1489年に王を破門してフランス王シャルル8世を招いたが、決着は教皇の死後の1494年までかかった。オスマン帝国のバヤズィト2世は、ローマにいた弟ジェムを幽閉し続けさせるため、教皇に多額の金と聖槍を贈った。教皇はバヤズィトが遠征を企てるたびに、ジェムの解放をちらつかせたといわれる。ジェムは1489年3月に教皇の管理下に入り、後継のアレクサンデル6世が1495年1月にフランス軍へ引き渡した。教皇が異教徒討伐にどこまで真剣だったかは分からない。1486年にはイングランド王ヘンリー7世を正統な継承者と認めた。
1484年12月5日の回勅「スンミス・デジデランテス」でドイツにおける魔術師と魔女の存在を激しく糾弾し、魔女狩りと異端審問を活発にした。この敵意は、1487年の『魔女への鉄槌』でさらにはっきりと示される。同じ1487年には、フェルナンド2世が推したトマス・デ・トルケマダをスペインの異端審問所長官と認め、ヴァルド派に対する討伐に加わる者には免償を与えると発表した。1486年にはピコ・デラ・ミランドラの著作の多くを禁書にした。1492年1月にグラナダが陥落しレコンキスタが完成すると、バチカンでも祝われ、教皇はフェルナンド2世にカトリック王の称号を与えた。
教皇は1492年7月25日に世を去った。多くの子を残し、親族登用が根深く、子らに多くの特権を与えた。「多くの悪い息子達が生まれ、娘達も生まれた。まさにこの人こそローマの父である」という痛烈な皮肉も残る。贅沢で乱れた私生活は、サヴォナローラに厳しく糾弾された。庶子の1人フランチェスケットはロレンツォ・イル・マニフィコの娘マッダレーナと結婚し、この縁談でロレンツォの次男ジョヴァンニ(後のレオ10世)は枢機卿に登用された。
同じ年に亡くなった人物
- ロレンツォ・デ・メディチ (1492年没)
- アントワーヌ・ビュノワ (1492年没)
- ヌーノ・ゴンサルヴェス (1492年)
- Hernando del Pulgar (1492年)
- ピエロ・デラ・フランチェスカ (1492年没)
同じ地域に関係する人物
- Domenico Bartolucci (2013年没)
- アンドレア・デ・チェザリス (2014年没)
- ジョン・キーツ (1821年没)
- ジュリエッタ・マシーナ (1994年没)
- ヨハネス8世 (ローマ教皇) (882年没)