HISTORICAL PERSON · 1784年没

サミュエル・ジョンソン

イングランドの文学者。個人で『英語辞典』(1755年)を完成させ、『詩人列伝』やシェイクスピア戯曲集の校訂でも知られる。文壇の大御所と呼ばれた。

生涯
1784年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ロンドン)
出生地
イギリス連邦(リッチフィールド)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

サミュエル・ジョンソンは、イングランドの文学者であり、詩人、批評家、文献学者である。1709年9月18日(ユリウス暦では9月7日)に生まれ、1784年12月13日に没した。1755年の『英語辞典』の編集で知られ、18世紀の英国で「文壇の大御所」と呼ばれた。親しみを込めて「ジョンソン博士」と称され、その有名な警句から「典型的なイギリス人」とも呼ばれる。主著には『詩人列伝』や、シェイクスピア全集の校訂もある。

イングランド中部のリッチフィールドに生まれた。父は小さな書店を営んでいた。少年期にわずらった結核のために、片方の耳は聞こえず、片方の目は見えず、首には瘰癧があった。オックスフォード大学で学んだが、家が貧しかったため中退し、故郷に戻って教員になった。1735年には、20歳ほど年上の未亡人エリザベス・ポーターと結婚した。1737年にロンドンへ出て、悲劇を書いたり、新聞に寄稿したりした。

1746年6月18日の朝、当時の辞典に不満を持っていたロンドンの本屋業界が、1,500ギニーでジョンソンに辞典の執筆を依頼する契約を結んだ。アカデミー・フランセーズがフランス語辞典を完成させるのに40年かかったことから、個人で行うのは無理だと見られたが、ジョンソンは1755年に『英語辞典』2巻を完成させた。編纂にあたってはパトロンとしてチェスターフィールド卿を頼ったが断られ、独力でやり遂げた。この業績により、オックスフォード大学から文学修士の称号を贈られた。辞典には皮肉に富んだ主観的な語釈も含まれていたが、これらは第2版以降で修正されたものが多い。たとえば辞書編集者は「辞書を書く人。文章を書き写し、言葉の意味を説明する仕事をこつこつとこなす無害の人」と、パトロンは「支持し、擁護し、援助する人。たいていは尊大な態度で保護し、お追従という代償を得る見下げ果てた人間」と定義されている。

1759年には小説『ラセラス』を書いた。1763年、30歳年下のジェイムズ・ボズウェルと知り合い、以後、生涯にわたる交友を結んだ。1765年にシェイクスピアの戯曲集を刊行し、1776年には法学博士の学位を得た。ジョンソンは「クラブ向きの男」と呼ばれ、クラブでの談論風発を好んだ。特に有名なのは、1764年にジョシュア・レノルズの呼びかけで創設されたザ・クラブである。創立メンバーはレノルズ、ジョンソン、エドマンド・バーク、オリヴァー・ゴールドスミスら9人で、のちにボズウェル、俳優のデイヴィッド・ギャリック、エドワード・ギボン、アダム・スミスらが加わって、ジョンソンの晩年には35人ほどになった。週に1回の夜、居酒屋で食事をしたあとに文学談義などを楽しむ集まりで、機知に富んだ話を得意とするジョンソンが会話の中心だったという。

警句も多く伝えられる。「ロンドンに飽きた者は人生に飽きた者だ。ロンドンには人生が与え得るものすべてがあるから」は、最もよく引用される言葉である。「愛国主義は不埒なやつらの最後の隠れ家だ」という言葉は、1775年4月7日の夕方に述べたもので、広く信じられているのとは違い、愛国主義一般を指すものではない。当時、「愛国主義」という語を乱用していた政治家や、とくにジョン・ウィルクスに対する批判であり、ジョンソンは「真の」愛国主義と考えるものは評価していた。ボズウェルによる『サミュエル・ジョンソン伝』は、晩年のジョンソンを生き生きと描いた人物伝の古典とされる。ロンドンの高等法院近くには、辞典を完成させた家が「ジョンソン博士の家」として保存されている。

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