HISTORICAL PERSON · 598年没

智顗

南北朝から隋にかけての僧侶で、天台教学の大成者、天台宗の開祖。天台大師とも呼ばれる。五時八教で仏教の全教義を整理し、『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』を残して、日本仏教にも大きな影響を与えた。

生涯
598年没
死亡地
中華人民共和国(浙江省 / 天台県)
出生地
中華人民共和国(潜江市)
出典
世界地図
中華人民共和国(浙江省)

伝記

智顗は、中国の南北朝時代から隋にかけて活動した僧侶である。大同4年(538年)に生まれ、開皇17年(597年)11月24日(新暦598年1月7日)に没した。天台教学の大成者であり、天台宗の開祖とされる。ただし、慧文、慧思に次ぐ第三祖ともされ、龍樹を開祖として慧文を第二、慧思を第三、智顗を第四祖とする数え方もある。天台大師、智者大師とも呼ばれる。

俗姓は陳氏で、荊州華容県(現在の湖北)の出身とされる。17歳のとき、故郷の江陵が西魏の軍に奪われて両親を失い、翌年18歳で出家した。若い僧として大乗の経典や戒律を学び、律師の慧曠のもとで『法華経』三部を誦したという。23歳で、禅定と『法華経』の大家であった南岳慧思(515年から577年)に出会った。初対面の慧思は、霊鷲山の法華経の会座にともにいた旧友として智顗を迎えたと伝えられる。560年から567年にかけて、智顗は慧思のもとで法華三昧懺法、般舟三昧、法華経に基づく四安楽行、『法華経』の瞑想的な誦持などを修めた。

567年、30歳になった智顗は、慧思に後継者と認められて、弟子たちとともに南朝の都である金陵の瓦官寺へ赴き、『法華経』や『大智度論』を講義した。その講義は568年(光大2年)から7年間、あるいは8年間に及んだとされる。しかし都での教化が人々を真の教えに導くには十分でないと感じ、575年に浙江の天台山に入って11年間修行と研究に専念した。この頃、北方では武帝による二度目の大きな仏教弾圧が進んでいた。智顗は天台山に寺も建て、これは後に修禅寺と呼ばれた。

585年、陳の王の要請で金陵に戻り、『法華経』を講じた。この講義は弟子によって編集され、有力な注釈書『法華文句』となった。のちに隋の煬帝となる晋王の求めに応じて菩薩戒を授け、王から「智者」の号を贈られた。その後、生まれ故郷の荊州にも寺を建てた。晩年にもさらに講義を行い、それが『法華玄義』『摩訶止観』となった。この二書と『法華文句』が天台三大部である。亡くなる直前には『維摩経』の注釈書二種も著した。天台五小部には、観音玄義、観音義疏、金光明経玄義、金光明経文句などが含まれ、智顗の著作として伝わる。

当時の中国仏教の教義全体を整理し、格付けと解釈、釈迦がどの時期に何を説いたかの査定を行う五時八教の教相判釈をまとめた。仏典はすべて釈迦の説いたものとし、50年の間に最初に華厳経を説き、最後の8年に法華経と涅槃経を説いたとするこの説は、日本にも伝わった。さらに空と仮の真理を、第三の中という真理で統合する三諦説を打ち立てた。『摩訶止観』は瞑想の段階的な手引きで、今も東アジアの仏教で参照される。五時八教は近代の仏教学では否定されたが、今でも信奉する宗派がある。日本でも、天台宗や、天台宗から生まれた宗派が大きな力を持つ上で、この説の影響は大きかった。晩年の智顗については、灌頂の伝える最期によれば、智顗は弥勒に供養し、観音などの名を唱え、『法華経』と観経の読誦を聞きながら、観音の迎えを待って浄土へ向かおうとしたという。直弟子は32人ともいわれ、最も影響力があったのは、師の講義を記録し保存した灌頂(561年から632年)であった。智顗の忌日の法会は霜月会と呼ばれ、途絶えていたものを天海が復興させた。天台の系譜は湛然から最澄へと続き、日本天台宗の祖となった最澄は湛然の孫弟子にあたる。

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