伝記
黄庭堅は、1045年7月28日、北宋の洪州分寧県に生まれた。字は魯直、号は山谷道人や涪翁で、黄山谷とも呼ばれる。家には蔵書と教育の伝統があり、父の黄庶も詩人であった。母の李氏は竹の絵と琴に優れた。父から杜甫の詩や韓愈の文章を教えられたが、十三歳の時に父を失い、安徽にいるおじ李常のもとで育てられた。李常も多くの書物を持っていた。若いころから草書を好み、書の師として周越に学んだ。1064年に初めて進士の試験を受けて失敗し、その後に及第した。及第年は1066年とも1067年ともいわれる。地方官や学官としての生活は、神宗の治世に始まった。
1068年から1069年にかけて天津の南西で大地震が続くと、被災者の苦しみを詩に詠んだ。1072年には教授資格の試験に通り、大名府の国子監で教え始めた。同年、おじ李常と義父孫覚が蘇軾に黄庭堅の作品を見せた。1078年には自ら書簡と古詩を送り、蘇軾も同じ韻を用いた詩で応じ、二人の親交が深まった。秦観、晁補之、張耒とともに蘇門四学士と呼ばれるようになった。蘇軾が政治を誹謗する文章を書いたとして罪に問われると、黄庭堅と李常も共謀者とされ、罰金を科された。黄庭堅は吉州方面、さらに山東の徳平鎮へと移された。地方では税の負担を軽くし、民衆に配慮した統治を行い、新法による塩の専売を実施しなかった。
1085年に神宗が死去し、旧法派が政権を握ると、黄庭堅は首都汴京へ召還された。校書郎、著作左郎、起居舎人などを務め、神宗の治世の記録を編集する仕事にも携わった。多くの文人と交わる時期となったが、1094年以降、新法派が再び実権を得ると、涪州、黔州、戎州などへ左遷された。地方での生活では自然に親しみ、詩や書画に取り組み、仏教に帰依して老荘思想にも傾倒した。詩では古人の表現に創意を加えて新しい作品を作る「換骨奪胎」の考えを打ち出した。書では顔真卿、楊凝式、懐素らの影響や、焦山の碑文『瘞鶴銘』からの啓発を受け、独自の書風へ進んだ。草書は丸みのある文字を連綿とつなぎ、行書は洗練と力強さを備えた。懐素の影響を受けながらも、筆の曲折は手厚く、そのリズムも異なる。
1100年には、蘇軾の『黄州寒食詩巻』に跋を書いた。九行の行草体で、蘇軾の筆に顔真卿、楊凝式、李建中の筆意があると評し、再び書いても同じほどにはならないと称賛した。1101年5月には荊州で、劉禹錫の詩を『伏波神祠詩巻』として書いた。毎行三字から五字、四十六行に及ぶ、楷書に近い行書の作品である。1102年の『松風閣詩巻』では、自作の詩を行書で二十九行にまとめ、顔真卿に加えて柳公権の筆意も示した。1103年には讒言を受け、宜州への流刑となった。1105年11月8日、その地で病死した。数え年で61歳であった。
南宋の度宗の時代に名誉が回復され、文節の諡号を贈られた。詩では江西詩派の開祖とされ、書では蘇軾、米芾、蔡襄とともに宋の四大家に数えられる。親孝行の人として二十四孝にも入った。日本では禅僧宗峰妙超の書風に影響が見られ、宗峰を通じて後醍醐天皇の書にも影響したと考えられている。『松風閣詩巻』は台北の国立故宮博物院に収められている。
同じ年に亡くなった人物
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- ラシ (学者) (1105年没)
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同じ地域に関係する人物
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