HISTORICAL PERSON · 1786年没

フリードリヒ2世 (プロイセン王)

第3代プロイセン国王。啓蒙専制君主の典型とされ、優れた軍事的才能と合理的な国家経営で国を強大化させた。フルートを演奏し、ヴォルテールと交際して全30巻の著作を著し、大王と尊称される。

生涯
1786年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ブランデンブルク州 / ポツダム)
出生地
ドイツ連邦共和国(ベルリン)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ブランデンブルク州)

伝記

フリードリヒ2世は、第3代プロイセン国王である。1712年1月24日、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世と王妃ゾフィー・ドロテアの子として生まれた。父は「兵隊王」とあだ名される無骨な人物で芸術を解さなかったが、母は後のイギリス王ジョージ1世の娘で、洗練された宮廷人だった。教育方針の違いから両親は対立し、それは王子にも大きな影響を与えた。父は教育係に、オペラや喜劇などのくだらぬ楽しみには近づかせるなと言い渡した。しかし王子は生来、母に似て芸術家気質で、とくに音楽を好み、クヴァンツにフルートを習って演奏会を開くこともあった。それを聞くと父は怒り狂い、杖で打ちすえたという。暴力、食事の差し止め、蔵書の取り上げなど、虐待に等しい扱いに耐えて成長した。

従姉のイギリス王女アミーリアとの縁談を機に、ついに逃亡を図った。近衛騎兵の少尉カッテとカイトに手引きを頼み、1730年8月5日の早朝に旅先の宿舎を抜け出したが、計画は漏れていて、その日のうちに連れ戻された。キュストリン要塞に幽閉され、父は暗殺の恐怖に苛まれていたため、これを罠と考え、息子を処刑しようとまでしたという。カイトはイギリスに逃れたが、カッテは捕らえられ、フリードリヒの目の前で斬首された。フリードリヒは窓から見るよう強制されたが、正視できず失神したと伝えられる。神聖ローマ皇帝カール6世の調停により廃嫡は免れ、数週間後に父に恭順の手紙を書いて釈放された。1733年6月12日、父の命に従い、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公の娘エリーザベト・クリスティーネと結婚したが、夫婦としての生活はなく、子もなかった。

ルピーン近郊のラインスベルク宮では、気の進まない結婚の代償として得た自由を楽しみ、友人を集めて著作も試みた。最初の著書『反マキャヴェリ論』は、君主こそ道徳においても国民の模範たるべきだと説き、ヴォルテールの手を経てオランダで匿名出版された。しかし即位後の戦争での野心は、この書の主旨と正反対だったと、ヴォルテールにも非難された。

1740年5月31日に父が崩御し、フリードリヒ2世として即位すると、ただちに拷問の廃止、宗教寛容令、検閲の廃止、オペラ劇場の建設などの啓蒙主義的改革を始めた。アカデミーを復興してオイラーらをベルリンに集め、ベルリンは「北方のアテネ」と称された。一方、父の8万の常備軍はさらに増員した。同年10月にカール6世が急逝すると、マリア・テレジアにシュレージエンの割譲を求めて拒まれ、12月16日に宣戦布告なしに侵攻した。以後、マリア・テレジアとは生涯の宿敵となった。第一次、第二次シュレージエン戦争を経て、1745年12月のドレスデンの和議でシュレージエンの領有を認めさせ、サンスーシ宮殿でヴォルテールらと過ごした。

1756年に七年戦争が始まると、人口400万のプロイセンは、墺仏露などの敵国8,000万に囲まれた。序盤のロスバッハなどで倍以上の敵を破ったが、1757年にコリンで大敗した。1759年のクーネルスドルフでは敗走し、1760年10月にはオーストリア軽騎兵がベルリンに迫った。自殺を覚悟したが、1762年1月にロシア女帝エリザヴェータが急死すると、後継のピョートル3世が崇拝者であったため講和が成立した。同年5月にはスウェーデンとも講和した。1786年8月17日に没し、その功績を称えられ、フリードリヒ大王と尊称される。

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