伝記
カルロ・オズヴァルド・ゴルドーニは、1707年2月25日にヴェネツィアで生まれ、1793年2月6日にパリで没したヴェネツィア共和国の劇作家である。喜劇の作家として知られ、イタリアの近代喜劇を創り、リブレット作家としても活動した。トスカーナ語、ヴェネツィア語、フランス語で作品を書いた。
薬草商から医師となったジュリオ・ゴルドーニの子として生まれた。父が与えた人形劇や、ヴェネツィア共和国の官吏であった祖父の影響で、幼い頃から演劇に引きつけられ、8歳で最初の喜劇を書いたという。1719年から翌年にかけて、両親に医学を学ぶようリミニへ送られたが、この道を捨て、旅回りの喜劇役者の一座に同行し、ヴェネツィアに戻された。1722年に叔父の勧めで法律を学び、1723年に父はパヴィアの厳格なギスリエーリ学寮に入れた。母は弁護士にさせたかったため法学を続け、ギリシャやラテンの喜劇に触れて創作を始めた。しかし法学部の3年目に、町の名家の娘たちを嘲る風刺詩を書き、ほかの逸脱も重なって、1725年に学寮を追われた。その後ウーディネとモデナで学び、キオッジャとフェルトレで弁護士の仕事に就き、ヴェネツィアに戻ってからも1747年まで弁護士として成功した。
次第に法律の仕事から離れて劇作に専念した。1732年に父が亡くなり、望まない結婚を逃れるためミラノへ、次いでヴェローナへ向かった。劇場支配人に喜劇の道を勧められ、ニコレッタ・コーニオを紹介されて結婚し、1743年にヴェネツィアに戻った。最初の作品は悲劇『アマラスンタ』でミラノでは成功せず、1734年の『ベリサリオ』はいくらか受け入れられた。その後いくつもの悲劇を書いたが、喜劇こそ自分の天職と気づいた。コメディア・デラルテとモリエールの影響を合わせ、1738年の『世慣れた男』で最初の本格的な作品を生んだ。1748年に弁護士を廃業し、メデバック劇団の座付き作者となり、矢継ぎ早に斬新な喜劇を送り出して、演劇の改革の時代を招いた。仮面による人物の類型を脱し、素顔の民衆の姿を描いた点が画期的であった。
1753年にサン・ルーカ劇場に移ったが、変革を喜ばない観客に加え、キアーリやゴッツィら保守的な劇作家の攻撃を受けた。ゴッツィは、ゴルドーニの現実的な喜劇が危険だと批判し、仮面喜劇を擁護した。論争が絶えず、財政も不安定だったため、1761年にパリのイタリア劇団の招きに応じ、1762年初頭にヴェネツィアで『キオッジャ騒動』などを上演したのち、フランスへ渡った。フランスでは多くをフランス語で書いたが、大半は失敗に終わった。1760年代半ばにルイ15世の宮廷に入り、ヴェルサイユで王女たちにイタリア語を教えた。フランス革命を迎えてパリに退き、1793年に没した。生涯に二百数十の喜劇を書き、ヴェネツィアの民衆を描き続けた。代表作に『二人の主人を一度にもつと』(1745年)、『コーヒー店』(1750年)、『宿屋の女主人』(1753年)がある。民衆の明るい活力は、凋落する貴族の無為と怠惰に対比され、その喜劇は現在も世界の舞台で上演される。1787年には回想録『わが生活と演劇』を著した。
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