HISTORICAL PERSON · 1793年没

ジャン=ポール・マラー

フランスの革命指導者・医師。ヌーシャテルに生まれ、ロンドンやパリで医師として働き、専制を攻撃する『奴隷の鎖』を著した。1789年に新聞『人民の友』を発刊し、革命指導者として活躍した。

生涯
1793年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
スイス連邦(Boudry)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ジャン=ポール・マラーは、フランス革命の指導者であり、医師である。1743年5月24日にスイスのヌーシャテルで、6人兄弟の長男として生まれ、1793年7月13日に暗殺された。幼少期については不明な点が多いが、それほど裕福な家庭ではなかったと推測されている。11歳のころ、父の罰に納得できず、怒って2日間何も食べなかったという。部屋に閉じ込められると、窓から飛び降りて脱出しようとして怪我をし、額に傷が残ったというエピソードがある。

1760年ごろ家を出てボルドーに行き、精糖業者の家庭教師をしながら大学で医学を学んだ。その後パリに出て、1765年にイギリスに渡り、約10年住んでロンドンで開業医となった。1774年のイギリス総選挙に際して『奴隷の鎖』を出版し、専制支配を攻撃して、君主制の下で人民が幸福にはなりえないことを示した。1776年にパリへ移ってからも医者として生計を立て、見放された上流階級の患者を癒したことで友人を得て、社交界に出入りするようになった。やがて王弟アルトワ伯の護衛隊付きの医師となった。社会的不公平を扱う『刑法草案』をアカデミーの懸賞論文に応募したが落選し、自然科学の論文で科学アカデミーに認められようと努めたものの叶わず、この不満が、革命期のアカデミー攻撃となって表れたという。1783年にスペイン宮廷に近づいて移住を企てて失敗し、アルトワ伯付きの医師の地位を失って、生活が苦しくなった。

1789年に全国三部会召集のニュースを聞くと、「私は生気を取り戻した」と記した。同年2月に第三身分に関するパンフレットを書き、ミラボーらに手紙を送って人権宣言案に意見を述べるなど、革命に関わり始めた。9月12日には新聞『人民の友』が創刊され、以後その新聞と一体となって、人民の友として行動した。マスコミュニケーションを最大限に利用した指導者であった。パリ市当局や憲法委員会を激しく攻撃したため、10月8日に逮捕状が出され、身を隠した後、翌年3月に逮捕されたが釈放された。論説には、ルソーの人民主権説とともに、人民の直接行動(蜂起)を肯定する理論家としての特色が見られる。1790年1月にイギリスに亡命し、4月に戻ってコルドリエ・クラブに入った。1790年11月には共和政への傾斜を示した。シャン・ド・マルスの虐殺でラファイエットと議会を攻撃して弾圧され、新聞の発行ができなくなったが、印刷工の女性シモーヌ・エヴラールが助け、二人は1792年に結婚した。

戦争論には慎重で、ロベスピエールとともに、戦争が国内の反革命勢力を利するとして自重を主張した。1792年に国民公会の議員となって山岳派に属した。ジロンド派はパリの影響力を警戒し、ロベスピエールとマラーを敵視した。1793年4月12日、マラーは国民公会侮辱罪で逮捕されたが、パリ民衆の反発が強く、24日に釈放された。5月末から6月初めにはジャコバン・クラブでジロンド派に対する蜂起を訴えて、ジロンド派議員の逮捕につながった。このころ持病の皮膚病が悪化し、自宅にこもって一日中入浴して療養していた。7月13日午後6時、面会に来たジロンド派支持者のシャルロット・コルデーに胸を短刀で刺されて暗殺された。コルデーは動機として、マラーが九月虐殺とジロンド派の除去に責任があり、独裁者になろうとしていたと答えた。遺体は防腐処置を施され、15日にコルドリエ教会で公開され、同教会の庭に埋葬された。

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