伝記
エドワード・ギボンは、1737年5月8日にロンドン近郊サリーのパットニーに生まれ、1794年1月16日に没したイギリスの歴史家であり、『ローマ帝国衰亡史』の著者である。格調高く皮肉のきいた散文、一次史料の活用、そして組織化された宗教への論争的な批判で知られる。庶民院議員も務めた。
父は同名の政治家エドワード・ギボン、母はジュディスである。祖父は南海泡沫事件で財産を失ったが、のちにその多くを取り戻し、父は相当な領地を受け継いだ。ギボンの下には、5人の弟と1人の妹が生まれたが、全員が1歳未満で夭折した。自分でも「母に顧みられず、乳母に飢えさせられた弱々しい子供」だったと述べている。9歳でキングストンの学校に入れられ、その直後に母が亡くなると、ウェストミンスター校の寄宿舎を営む伯母キャサリン・ポーテンに育てられた。伯母は知識の初歩と、本を愛する心を教えてくれた恩人として回想されている。1751年ごろには、すでに歴史書を多く読んでいた。1752年にバースで体を養ったあと、15歳になる前に、父の手でオックスフォード大学モードリン・カレッジに入れられた。しかし大学の雰囲気にはなじめず、そこでの14か月を人生で最も無為な期間だったと悔やんでいる。神学の探究の果てに、1753年6月にローマ・カトリックへ改宗した。当時のイギリスでは、紳士階級の人間のカトリックへの改宗は、排斥と昇進の道が閉ざされることを意味したので、父は不安に思い、ギボンを大学から退学させて、スイスのローザンヌに住むプロテスタントの牧師パヴィリアールのもとへ送った。
ローザンヌでの教育は終生大きな影響を与えた。この地で後に終生の友となるドゥヴェルダンやホルロイド(のちのシェフィールド卿)と知り合った。父に相続権を奪うと脅され、1754年のクリスマスにプロテスタントへ再改宗し、「ローマ教会の信条は夢のように消えた」と書いた。その後5年ほどローザンヌで過ごし、パスカル、ベール、ロック、プーフェンドルフ、グロティウスを研究して学問に磨きをかけた。この間に、牧師の娘スザンヌ・キュルショ(のちにネッケル夫人、スタール夫人の母)と恋に落ち、結婚を申し込んだが、父の厳しい反対と、スイスを離れたがらない相手の意向で実らなかった。1758年8月に帰国し、「恋人としては溜息をついたが、息子としては従った」と語っている。1761年に最初の著書を出版し、パリで文人として知られるようになった。七年戦争のさなかには民兵隊の大尉を務めた。1762年12月に兵役を離れてローマに向かい、かつての帝国の興亡に思いを巡らせたと伝わる。
1765年6月から父の死の1770年まで父の家で過ごした。父の死後は、十分な不動産の遺産を背景に、ロンドンのメリルボーンに居を定めた。サミュエル・ジョンソンの文筆クラブにも出入りした。1774年にフリーメイソンに入会し、親戚の後押しで、ホイッグ党選出の庶民院議員を1774年から80年まで務めた。1773年から『ローマ帝国衰亡史』の執筆を始めて、1776年から1780年代末にかけて出版した。1788年に王立協会のフェローに選ばれ、没後に自伝が刊行された。
同じ年に亡くなった人物
- パイシイ・ヴェリチコフスキー (1794年)
- ジョン・ウィザースプーン (1794年没)
- ゾフィー・フリーデリケ・ツー・メクレンブルク (1794年没)
- ピエール・ガスパール・ショーメット (1794年没)
- ルトフ・アリー・ハーン (1794年没)
同じ地域に関係する人物
- カメハメハ2世 (1824年没)
- ニネット・ド・ヴァロア (2001年没)
- ヘンリー・ペラム (1754年没)
- フレッド・ジンネマン (1997年没)
- エドワード・クレイヴン・ウォーカー (2000年没)