伝記
フルィホーリイ・スコヴォロダは、1722年12月3日に生まれ、1794年11月9日に没した近世ウクライナの哲学者であり、文人、詩人である。ロシア帝国で初めての哲学者とされ、その生き方と影響力から「ウクライナのソクラテス」と呼ばれた。
ロシア帝国の属国となったヘーチマン国家に属するチェルニーヒウ村の、ウクライナ・コサックの小規模な地主の家に生まれた。キエフ・アカデミーで1734年から1753年まで人文科学を中心に学んだが、休学を何度も繰り返し、卒業はしていない。1741年、19歳のとき、叔父の縁で帝室の聖歌隊で歌うために、キエフからモスクワとサンクトペテルブルクに連れて行かれ、1744年にキエフへ戻った。1745年にはトカイでの皇室用ワインの調達にあたる使節団に加わってハンガリーへ赴き、1750年までそこで過ごした。この間に、プレスブルクやブダ、ウィーンなどを訪れて現地の学者と交流し、ヨーロッパの他の地にも足を延ばしたと考えられている。この中欧での旅は、思想の形成期にあたる。1750年にキエフへ戻り、翌年にかけてペレヤスラウの学院で詩学を教えたが、教授法をめぐって論争になり、主教に解任された。再開したキエフ・アカデミーでの勉強も、4年かかる神学の課程を2年目の途中でやめた。
1753年夏から約6年間、ペレヤスラウ連隊のコサック貴族の家に家庭教師として仕えた。この間に詩を書き始め、後に『神秘な歌の庭』にまとめられる詩もつくった。1759年にハルキウの学院に招かれて詩学を教え、一時辞めたが、1762年に復帰して統語論とギリシャ語を、1768年からは倫理学を教えた。ところが1769年、倫理学の教授法に聖職者から批判が浴びせられ、教職を捨てた。定職を探すことを諦め、以後25年間は、友人を訪ねながら東ウクライナを旅して歩く放浪の思索者として暮らした。旅の途中で独自の作品を書き、外国の思想家の翻訳も完成させた。1794年11月9日、友人の家で死去した。墓石には遺言のとおり「現世が私を捕らえようとしたが、捕らえることはできなかった」と刻まれた。
作品には、詩集『神秘な歌の庭』、寓話集『ハルキウの物語』、哲学論『ナルキッス』、問答書『川辺の会話』などがあり、キケロやプルタルコス、ホラティウス、オウィディウスの翻訳もある。バロック風の問答形式で書かれ、深く研究した聖書の影響が強い。ウクライナ語の語彙の混じった教会スラヴ語、ギリシャ語、ラテン語で書いた。すべてのものは見える天性と見えない天性をもち、本質をつかめるのは知を求める者、情の厚い者、現世にとらわれない者だけだと説いた。宇宙、聖書、人間の三つの世界を知ることが理解に欠かせず、小世界である人間が聖書を考察することで宇宙に近づける。ソクラテスの自覚論にもとづき、人間は自分の本質を知れば幸福になれ、人間の心が豊かになれば社会全体も豊かになると信じていた。作品はロシア正教会の抵抗もあって生前には出版されなかったが、貴賎を問わず人気があり、写本としてウクライナやサンクトペテルブルクに流布した。「ゆっくりと急ぎなさい」「何も必要としない者は、天に近い」「人生は旅路であり、友好はその道の車である」といった言葉が、彼のものとして伝えられている。
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