HISTORICAL PERSON · 1794年没

ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト

ロベスピエールの右腕とされた革命家。軍の規律を立て直し、公安委員会で軍事と内政を担い、「革命の大天使」の異名を持つ。

生涯
1794年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
フランス共和国(ドシーズ)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ルイ・アントワーヌ・レオン・ド・サン=ジュストは、1767年8月25日にブルゴーニュ地方ニヴェルネ州に生まれ、1794年7月28日に没したフランスの政治家であり、革命家である。ロベスピエールとともにフランス革命に参加し、その右腕とも称された。美貌と冷厳な革命活動から「革命の大天使」「死の天使長」の異名をとった。

父ルイ・ジャンは農民の出で、軍功により騎士の称号を持つ軽騎兵隊の大尉、母マリー=アンヌ・ロビノは公証人の娘であり、二人の妹がいた。幼少期は司祭だった伯父のもとで過ごし、1776年に両親とともにピカルディ州のブレランクールに移った。父は1777年に亡くなった。1786年までソワソンのオラトリオ会のコレージュで学んだが、規則に反感を覚え、宗教に反発するようになった。同じころ、土地の名士の娘テレーズと恋仲になったが、彼女の父の反対で終わり、彼女は別の青年と急いで結婚させられた。失恋したサン=ジュストはパリに出てパレ・ロワイヤルに住み、放蕩生活を送ったとされる。生活費のため家の金銀細工を持ち出したといわれ、母は国王の封印状を取って、1786年から翌年にかけて息子を矯正施設に入れた。1787年に家へ帰ると、ランス大学の法学部に入り、1年後には法学士の称号を得た。ピエール・パガネルの覚書によれば、中肉中背で、頭が大きく髪は豊かで、整った顔立ちながら冷ややかな表情をしていた。

1789年には、風刺詩『オルガン』を地下出版した。激しい宗教批判と政治批判にエロティックな場面も盛り込まれたため、当局から禁書とされ、身の危険を感じてパリに潜伏した。このときバスティーユ襲撃を目撃し、以後は禁欲的、理想主義的に革命の実現を追い求めるようになったという。ブレランクールに戻って地元の政治に加わり、1790年6月には23歳で国民衛兵隊の中佐になった。ロベスピエールに感銘を受けて手紙を書き、やりとりを通じて友人関係を結んだ。1791年に『革命及びフランス憲法の精神』を発行し、年齢が足りず立法議会の選挙には出られなかったが、1792年9月にロベスピエールの支援を得て、25歳で国民公会議員に当選した。

国民公会での処女演説は、国王裁判に関するものであった。彼は、王の存在自体が悪であり、王は市民ではなく敵であるから、裁判にかけるのではなく死刑にすべきだと主張し、「この男は王として統治すべきか、それとも死なねばならない」と述べた。賛同は少数にとどまったが、テュイルリー宮殿の鉄戸棚が見つかって有罪が決定的となり、裁判は行われた。1793年にはジロンド派を告発する演説を行い、逃亡者らを祖国への裏切者と呼んだ。10月10日には「フランス臨時政府は平和が到来するまで革命的である」と宣言し、公安委員会が政策を一元的に握る革命政府の制度を示した。10月後半からは議員ルバとともにライン方面軍に派遣され、糧食も軍律も司令官もない軍の立て直しに当たった。11月にはストラスブールで、野戦病院のために金持ちから2千台のベッドを、兵士のために貴族から1万足の靴を没収させるなど、強引な措置もとった。1794年7月のテルミドールのクーデターの中で、7月28日に没した。

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