伝記
アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエは、フランス王国のパリ出身の化学者である。1743年8月26日に生まれ、1794年5月8日に没した。質量保存の法則の発見、酸素の命名、フロギストン説の打破などの功績から、「近代化学の父」と称される。裕福な出自から貴族となったが、フランス革命の動乱に翻弄されて落命した。
裕福な弁護士の子としてパリに生まれた。母は5歳のころに亡くなり、莫大な遺産を引き継いだとされる。母を失ってからは叔母のもとで育てられた。はじめは父の跡を継いで法律家を目指し、1761年にパリ大学の法学部に進んで、1763年に学士号を得た。
自然科学への関心が芽生えたのは、パリ大学在学中のことである。ラカーユから天文学を、ベルナール・ド・ジュシューから植物学を、ゲタールから地質学と鉱物学を学んだ。法学部に籍を置きながら、化学の講義を聴き、ゲタールのフランス地質図の作成にも協力した。ゲタールと各地をまわったときには、アルザス=ロレーヌなどで各地方の石膏に関心を示してその比較研究をした。これが最初の自然科学の研究であり、推測を極力排して実験事実を重んじる姿勢は、のちの定量実験の成果の兆しでもあった。
1766年、フランス科学アカデミーが懸賞募集した「都市の街路に最良な夜間照明法」の論文で一等賞を得て、国王ルイ15世から金メダルを授けられた。その後、地質図作成の旅で集めた飲料水の分析結果が認められ、1768年5月18日にアカデミーの会員となった。当時有力だった四大元素説には、「水は土に変わることがある」という説があった。これに疑問を抱いて、1768年の末から翌年にかけて、101日をかけて水を密閉した容器で沸騰させ、重さを正確に測る実験を行った。土の発生は見られず、この説の反証を示した。実験器具を買う資金は十分にあったが、1768年ごろから徴税請負人の職に就いた。実験は道楽で、週に1日を「幸福の1日」と呼んだという。1771年12月6日、徴税請負人長官の娘マリー=アンヌ・ポールズと結婚した。子はなかったが、マリー=アンヌは夫の役に立つため、英語やラテン語、イタリア語、化学や実験図の描き方を身につけ、外国の論文の翻訳や実験の記録に尽くした。
1775年ごろに火薬硝石公社の火薬管理監督官となり、翌年には兵器廠に移り住んで実験室をつくった。この実験室で実験の大部分が行われ、化学者の集まる場所として有名になった。火薬を改良し、硝石の生産量を増やした。
1774年1月には、密閉容器での実験で、化学反応の前後で全体の質量が変化しないことを見出した。これが質量保存の法則であり、今日も化学の初等教育で教えられる基礎法則である。当時、燃焼を説明する主流はシュタールのフロギストン説で、燃焼は分解現象であり、可燃物からフロギストンが飛び出すとされていた。1772年にリンと硫黄を燃やす実験を行い、重量が増えることと、空気が燃焼物に吸収されることを確かめ、重量増加の原因は空気にあると考えた。1774年4月には、錫を入れた曲頸瓶を加熱して、錫灰の重さを比較する実験を行い、フロギストンは存在しないと判断した。同年の10月にはプリーストリーから、水銀灰を加熱すると燃焼を助ける気体が出るという話を聞いた。翌年から酸化水銀を強熱して気体を得る実験を重ね、燃焼はその気体と可燃物が結合することだと考え、気体を「オキシジェーヌ」と命名した。1783年にキャヴェンディッシュの実験を定量的に追試して、水が元素ではなく化合物であることを示し、水を作る気体を「イドロジェーヌ」と名づけた。
同じ年に亡くなった人物
- エティエンヌ=シャルル・ド・ロメニー・ド・ブリエンヌ (1794年没)
- シャンフォール (1794年)
- Leopold August Abel (1794年)
- フロリモン=クロード・ド・メルシー=アルジャントー (1794年没)
- ロザリー・フィユール (1794年)
同じ地域に関係する人物
- マーガレット・ガーディナー (1849年没)
- ジャン・タロー (1952年没)
- マドレーヌ・フランソワーズ・バスポルト (1780年没)
- マルク・アレグレ (1973年没)
- ジュゼッピーナ・ボツァッキ (1870年没)