伝記
フランソワ=アンドレ・ダニカン・フィリドールは、18世紀フランスの作曲家であり、当時は世界屈指のチェス・プレイヤーとも見なされていた人物である。1726年9月7日にドルーで生まれ、1795年8月31日にロンドンで没した。有名な音楽家一族の出身で、チェスに関する著作は、少なくとも1世紀にわたって標準的な指南書として通用した。
父は「年長者」と呼ばれたアンドレ・ダニカン・フィリドールで、後妻との間にもうけた子である。父が高齢で、まだ幼いうちに死別したため、当時は同名の父と区別する必要がなく、単にアンドレ・ダニカン・フィリドールとして知られていた。のち父の役割が見直され、区別のために「フランソワ=アンドレ」と呼ばれるようになった。
1732年に6歳でルイ15世の宮廷に出仕し、宮廷礼拝堂の聖歌隊員となった。11歳ごろに最初の作曲を試みた。ある逸話では、聖歌隊員たちは王が来るまでの退屈しのぎにチェスをしていたという。14歳でパリで音楽を教え、写譜師として働いた。ラモーを深く敬愛していたが、ラモーからはフランス音楽にイタリアの形式を持ち込んで堕落させるものと非難された。18歳のとき、言論の自由をめぐる大胆な発言で警察ともめ、二週間投獄された。
1745年にロンドンへ渡り、ヘンデルは彼の音楽にラモーより好意的だった。1754年に帰国したが、ヴェルサイユの礼拝堂の空席の職は得られなかった。宗教曲はイタリア風の色合いが強く、フランスの聴衆には冷たく迎えられたため、劇音楽の道に進み、フランスのオペラ=コミックの創始者の一人となった。『鍛冶屋ブレーズ』は大成功を収め、『エルネリンド』は傑作として、ルイ15世からの年金を得るきっかけになった。1750年から1770年にかけて、フランスの指導的なオペラ作曲家となり、24曲を書いた。しかし、グレトリなどに比べて能力が劣ると悩み、以後はチェスに専念することにした。
チェスの中心地、カフェ・ド・レジャンスにしばしば通ったのは1740年ごろのことで、1740年代を通して、グレコ亡きあと最強の選手とみなされた。当時最高の選手であったレガルに師事し、最初はルーク落ちのハンデをもらっていたが、わずか3年で匹敵する実力となり、やがて師を超えた。1745年にはイギリスでシリア出身の名手スタンマと対戦し、毎回スタンマに先手を持たせながら8勝1敗1分の大勝利を収めた。1747年には非公式の世界チャンピオンとなった。1783年5月9日、ロンドンのチェスクラブで、盤面を見ずに行う目隠しチェスを同時に3人相手にやってのけ、友人たちを驚かせた。観戦者たちは後世の人が信じないのではないかと、宣誓供述書まで作った。1749年に『フィリドールの解析』を出版し、これは1871年までに70版を重ね、各国語に翻訳された。9通りの序盤の定跡を分析し、「ポーンこそがチェスの魂である」との格言を残した。ルーク対ルークとポーンの不利な状況から引き分けに持ち込む「フィリドール・ポジション」や、序盤の「フィリドール・ディフェンス」にその名が残る。
フランス革命が勃発したとき、フィリドールはイングランドにいた。王の年金で暮らし、立憲君主制を支持して1792年に英国へ亡命したため、革命政府の追放者リストに載せられた。妻や長男の努力にもかかわらず、帰国の旅券は下りなかった。1795年にロンドンの自宅で亡くなり、ピカデリーの聖ジェームズ教会に葬られた。親族がリストから名を外させることに成功した、ほんの数日後のことであったという。
同じ年に亡くなった人物
- ルートヴィヒ・オイゲン (ヴュルテンベルク公) (1795年没)
- ジョサイア・ウェッジウッド (1795年没)
- ジョヴァンニ・アルドゥイノ (1795年)
- ジェイムズ・ボズウェル (1795年没)
- ジョン・サリバン (1795年没)
同じ地域に関係する人物
- ニネット・ド・ヴァロア (2001年没)
- ジョン・クローファード (1868年没)
- トーマス・ニューコメン (1729年没)
- アントニー・アシュリー=クーパー (第3代シャフツベリ伯爵) (1713年没)
- レイ・ノーブル (1978年没)