伝記
アデオダトゥス1世は、第68代ローマ教皇で、在位は615年11月13日から618年11月8日までである。デオダトゥス1世とも呼ばれる。名はラテン語の「デウスデディト」、すなわち「神から与えられた」に由来する。同時代の史料に見えるのはこのラテン語名だけで、それが生まれたときの名でもあったのかは分からない。672年から675年に在位した別の教皇にも同じ意味の名があり、のちにこの二人を「1世」「2世」と呼び分けるのが習わしとなった。名前の混同から、多くの呼び名が生まれたという。カトリック教会と正教会で聖人とされ、正教会では東西教会の分離以前の「正教会のローマ教皇」の一人に数えられる。
生涯について知られることはわずかで、『教皇の書』と、のちに聖ペトロ大聖堂に刻まれた墓碑銘が拠りどころとなっている。550年頃の生まれとされ、ローマに生まれ、父は副助祭のステファヌスといった。司祭として長く仕えたのち、すでに高齢で教皇に選ばれたが、皇帝の承認をさらに5か月待たねばならなかった。533年以来、司祭から直接教皇に選ばれた最初の人物である。伝承では、教皇になる前にベネディクト会の修道士だったといわれるが、確かな証拠はない。
彼を推したのは、大グレゴリウス(在位590年から604年)やボニファティウス4世(在位608年から615年)の修道院を重んじる政策に反対する一派であった。『教皇の書』は、彼が聖職者をたいへん愛し、教会の役職に修道士より司祭を登用することを好んだと、満足をこめて記している。前任者が行政の役職を修道士で固めたのを改め、聖職者をそれらの職に呼び戻し、司祭の叙階も行った。ローマでの叙階は、グレゴリウスの時代以来、初めてであった。世俗の政治にはあまり関わらなかったが、宗教面では、ローマの聖職者に夕べの祈りを朝と同様に唱えるよう命じた。また、教皇文書に鉛の封印、いわゆる「ブッラ」を初めて用いた人物と伝えられる。今日も彼の時代の封印が残り、表には羊の群れの中の善き羊飼い、その下にギリシア文字のアルファとオメガ、裏には「デウスデディト教皇」の銘があるという。
在位の3年余りの間には、東ローマ軍のイタリア駐留部隊が、給与の未払いに不満を抱いて大規模に反乱し、総督ヨハンネスをはじめラヴェンナ政府の高官が殺された。教皇は皇帝ヘラクリウスへの忠誠を保ち、新たな総督エレウテリウスがローマを訪れた際には温かく迎えた。総督は反乱の鎮圧のためラヴェンナへ向かったが、まもなく自らも反乱に同調し、ローマへ進軍する途中、部下に殺された。またランゴバルド王国の摂政テオデリンデが、パリの聖ケラヌスを通じて教皇と交流を持ったとされる。その墓碑銘は、教皇を素朴で敬虔、賢明かつ機敏な人物と記している。
618年にはローマを地震が襲い、それに続いて疥癬が流行した。教皇は同年11月8日に没した。臨終に際し、聖職者たちに1年分の給与に相当する金を、葬儀に参列する贈り物として残したといい、遺言でこのような手当を残した最初の教皇とされる。後任にはボニファティウス5世が就いた。遺体は聖ペトロ大聖堂に葬られたが、のちに教皇インノケンティウス12世の求めで、チント・エウガネオのヴァルノガレードにある聖バルトロメオ教会に移された。
同じ年に亡くなった人物
同じ地域に関係する人物
- マリオ・ブレガ (1994年没)
- ピウス12世 (ローマ教皇) (1958年没)
- Giuseppe Patroni Griffi (2005年没)
- エウゲニウス4世 (ローマ教皇) (1447年没)
- ジェンナーロ・ヴェロリーノ (2005年没)