伝記
エドマンド・バークは、アイルランド王国生まれのイギリスの政治思想家・哲学者・政治家である。「保守思想の父」として知られ、1765年から1794年まで庶民院議員を務めた。1729年1月12日、ダブリンの法律家リチャード・バークの次男として生まれた。父は国教徒、母はカトリックであったが、本人は国教の洗礼を受けた。1744年、15歳でダブリンのトリニティ・カレッジに入学し、1748年に学位を得たのちも大学に残って美学を研究した。1750年に父の希望でロンドンの法学院ミドル・テンプルに入った。
1756年に『自然社会の擁護』を発表したが、後に彼自身が諷刺だと語った。1757年に匿名で『崇高と美の観念の起源』を発表すると、サミュエル・ジョンソンに「真に批評に値するもの」と評価されて文壇に出た。この年にジェーン・ニュージェントと結婚した。1758年には出版人ドズリーと組んで年鑑『アニュアル・レジスター』を創刊し、約30年にわたり編集に携わった。1764年にはジョンソンを中心とする文学クラブが結成され、レノルズやゴールドスミスとともに創設会員となった。
1765年にホイッグ党の領袖ロッキンガム侯の秘書となり、バッキンガムシャーから選出されて庶民院議員となった。国王ジョージ3世がトーリー党員らと組んで王権を取り戻そうとする中、1770年に『現代の不満の原因についての考察』で政党制の意義を説き、議会の王権からの独立を主張した。植民地政策では「アメリカに対する課税」「和解の提案」を著して、植民地住民との和解を主張した。アイルランドのカトリック教徒を弁護し、東インド会社の腐敗を正すためインド法案を起草した。初代インド総督ヘースティングズへの弾劾運動を率い、1794年の議員引退まで続けた。ブリストルでは「国民代表」の概念を示したブリストル演説をおこなったが、アイルランドへの貿易制限の解除やカトリック救済法に賛成したことなどが理由となり、1780年の総選挙で議席を失った。以後はロッキンガム侯らの計らいでマルトン選挙区の議員を務めた。1784年にはグラスゴー大学の学長に任命された。
1789年7月14日のバスティーユ襲撃のとき、バークはすでに60歳であった。当初からフランス革命に否定的で、決定的になったのは、10月にルイ16世をパリに連れ戻すため暴徒化した市民がヴェルサイユへ進撃した事件であった。1790年の『フランス革命の省察』は、革命への批判であり、その後の経過の予見でもある。2月9日に初めて公に革命を非難し、5月6日には下院でその脅威を説いたので、この日を近代保守主義の誕生日とする者もいる。1790年の建白書では、フランス国内に反革命勢力があるうちに、英国は宣戦すべきだと主張した。ピットが領土的侵略を警戒したのに対し、彼は英国の法と自由の崩壊、ひいてはヨーロッパ文明の破壊に警鐘を鳴らした。1796年には国王弑逆者との講和に反対した。
1794年に議会を退き、ビーコンズフィールドに引退した。同年8月、溺愛していた息子リチャードと死別した。1797年7月9日、私邸で病没し、68歳であった。腸結核とされる。名誉革命を支持する一方、フランス革命を批判し、祖先から相続した制度や慣習を重んじる政治哲学を説いた。
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