伝記
ジェームズ・ハットンは、ユリウス暦1726年6月3日に生まれ、グレゴリオ暦1797年3月26日に没したスコットランドの地質学者で、農学者、化学工業の経営者、博物学者、医師でもあった。近代地質学の基礎となる斉一説の提唱者として知られ、「近代地質学の父」とも呼ばれる。その説を証明する有名なハットンの不整合を、ジェドバラとシッカー・ポイントで発見した。また火成論者としても知られ、地球の年齢が非常に古いことを示して、地質学が従来のキリスト教的な「若い地球」観から脱却することにつながった。
エディンバラの商人の子として生まれた。母はサラ・バルフォアで、市の財務官を務めた商人の父は、彼が3歳の1729年に没した。1736年、10歳でエディンバラのロイヤル・ハイ・スクールに入学し、ラテン語、ギリシャ語、数学を学び。1740年11月、14歳でエディンバラ大学に入って法律を学び、1743年春に卒業して、母の縁故で弁護士事務所に就職したが、仕事に適していなかった。1744年秋にパリ大学、ライデン大学で医学と化学を学んだ。1745年8月、チャールズ・エドワード・ステュアートが反乱を起こしてエディンバラの市民に多大な影響を及ぼし、勉学の妨げともなった。1747年末にパリに移って医学を続け、1749年9月にライデン大学で医学の学位を得た。この時の論文「マイクロコスモスの血液と循環」で、のちに地球にも「循環」という考えを適用した。
コリン・マクローリンの自然哲学の講座で、ニュートンの考えに初めて触れ、これが後の考えに重要に作用した。帰国後、友人ジョン・デイビーと煤からの塩化アンモニウム生産を成功させて利益の上がる化学工場を共同経営し、エディンバラの不動産も貸した。1750年代の初めには父から受け継いだ農場に移って、他地域の農法を導入し、農事の改良や実験に励んだ。1753年の手紙に、地表を調べるのが大好きになったと書いており、農場を開墾し排水する中で、地質への関心が育った。ジョン・プレイフェアは、現在の岩石の大部分が、より古い動植物や鉱物の破壊によって生じた材料から成ると、ハットンが気づいたと記している。1760年ごろから理論的な考えがまとまり始めた。1768年末、20年ぶりにエディンバラへ戻り、1770年にセント・ジョンズ・ヒルに家を建て、未婚の3人の姉妹と生涯同居した。
エディンバラで研究生活に入り、スコットランド、イングランド、北部フランス、オランダを旅して、各地の地質を観察した。地球についての学説発表のための最初の講演会は1785年3月7日、エディンバラ王立協会の主催で開かれ、二回目は4週間後の4月4日に行われた。ハットンは現在の自然現象をもとに過去の地質現象を合理的に説明しようとし、地下の火の作用を重視して、熱の膨張力が大地を隆起させ、地層を変化させ、地殻の割れ目にマグマが進入すると考えた。火山は広域的な大地の上昇の安全弁と見た。水成起源とされた花崗岩を火成起源とみなし、火成論の代表とされたが、水の作用も重視した。
1795年に『地球の理論』を出版したが、難解で当時は評価されなかった。1802年、友人のプレイフェアが『ハットンの地球理論の解説』を出版し、一般に理解されるようになった。ハットンの説は、のちライエルに高く評価され、『地質学原理』によって広く普及した。ブラックやワット、アダム・スミスらと交流があった。4年前から病に冒され、1797年3月26日の夕刻に70歳で亡くなり、エディンバラ城の南のグレイフライアーズの墓地に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- ジェフリー・アマースト (初代アマースト男爵) (1797年没)
- アンドレアス・ペーター・フォン・ベルンシュトルフ (1797年没)
- トマス・チッテンデン (1797年)
- エドマンド・バーク (1797年没)
- ジョン・ウィルクス (1797年没)
同じ地域に関係する人物
- シャーロット・アワーバック (1994年没)
- エドワード・フォーブス (1854年没)
- アラン・ラムゼイ (1758年没)
- ウィリアム・カレン (1790年没)
- ハンス・ガル (1987年没)