HISTORICAL PERSON · 1797年没

ミュンヒハウゼン男爵

18世紀のプロイセン貴族で、ロシア軍の騎兵少尉も務めた。故郷では機知に富んだ話術で人気を集め、彼の冒険談が原型となって『ほら吹き男爵の冒険』が生まれ、ラスペ版やビュルガー版で広まった。

生涯
1797年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ニーダーザクセン州 / ボーデンヴェルダー)
出生地
ドイツ連邦共和国(ボーデンヴェルダー)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ニーダーザクセン州)

伝記

ミュンヒハウゼン男爵は、奇想天外な物語として知られる『ほら吹き男爵の冒険』の主人公である。その原型は、実在の18世紀のプロイセン貴族カール・フリードリヒ・ヒエロニュムス・フォン・ミュンヒハウゼンが、周囲に語った自身の冒険談である。この項では、史実とされる部分と創作とされる部分を分けて記す。

実在のミュンヒハウゼンは、1720年5月11日に生まれ、1797年2月22日に没した。現在のニーダーザクセン州の町ボーデンヴェルダーに、ミュンヒハウゼン家の第5子として生まれた。15歳のときブラウンシュヴァイク公家に小姓として出仕した。ロシアに移住していた公子アントン・ウルリヒが、死亡した小姓の補充を実家に要請したため、1737年にウルリヒに仕えるためロシアへ渡ったが、1739年には自ら職を辞して主君のもとを去り、バイロン公爵夫人の求めでロシア軍の騎兵少尉に任官した。翌1740年、ウルリヒの妻アンナが息子のイヴァン6世を擁して摂政となった政変の余波で中尉に昇進した。その後はリガに駐屯し、1740年と1741年にはオスマン帝国との戦いに出征した。1741年12月の政変でイヴァン6世が廃され、ウルリヒが妻とともに幽閉されたが、ミュンヒハウゼンは2年前にウルリヒのもとを去っていたため、辛うじて追及を免れた。1744年、リヴォニアのペルニゲルで判事の娘ヤコビン・フォン・デュンテンと結婚した。

1750年に大尉に昇進し、休暇で妻を伴ってボーデンヴェルダーに帰省した。ところが母が急死し、二人の兄も戦死して、彼がミュンヒハウゼン家を継ぐことになったため、生涯ロシアに戻ることはなく、1754年にロシア軍から除籍された。故郷では機知に富む話術で人気を集めた一方、実務面では誠実な人物と評された。妻に先立たれたのち、1794年に再婚したが、不和から離婚した。子供はなかった。カリーニングラードには「ミュンヒハウゼンの末裔たち」というクラブがあり、2005年に像が建立された。

物語の冒頭によれば、晩年の男爵は話好きで、館に客を集めてはフィクションを交えた体験談を語った。話が面白いので、ある人物がこっそり記録して本人に無断で出版した。男爵は怒って出版をやめさせようとしたが、本は売り出されて人気を呼び、憤慨のあまり死んでしまったという。物語が初めてまとまった形で出版されたのは1781年のベルリンで、著者は不明である。1785年には大幅に加筆された英語版が出版され、著者は元ヘッセン方伯の司書ルドルフ・エーリヒ・ラスペである。物語にはミュンヒハウゼン以外の出典から借りたものも少なくなく、ラスペの出版は男爵の評判を落とす結果となった。ラスペには盗癖があり、方伯のコレクションに手をつけた容疑で英国へ逃れていたという。

1786年、ゲッティンゲン大学の私講師ビュルガーがラスペ版をドイツ語に翻訳して加筆し、ドイツに逆輸入した。このビュルガー版は今日のドイツでも最も知られた版の一つで、共和思想の持ち主だったビュルガーは政治的風刺を多く盛り込み、生前は著者であることを固く秘した。19世紀には多くの作家が加筆し、さまざまな言語に翻訳されて、物語には100以上の異同がある。男爵自身が語った話がどれほどあるかは不明で、エピソードの大多数は、ミュンヒハウゼンの生まれる前から数世紀にわたって流布した民話がもととなっている。男爵のイメージを決定づけたのは、1862年版に採用されたギュスターヴ・ドレの挿絵である。

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