伝記
平陽昭公主は、中国の唐の高祖李淵の三女である。本名は伝わっておらず、封号が平陽、諡号が昭で、通常はこれをひとつにして平陽昭公主と呼ぶ。李淵と竇皇后の間に生まれ、竇皇后が産んだ唯一の娘で、ほかに李建成・李世民・李玄霸・李元吉の4人の兄弟がいた。成人すると柴紹に嫁いだ。娘子軍を率いて父を助けたことで知られ、唐の最初の女性の将軍とも呼ばれる。
大業13年(617年)、父の李淵が太原で兵を挙げたとき、公主は夫の柴紹とともに長安にいた。柴紹が、父に従いたいが公主を連れて行くのは難しいと話すと、公主は「どうぞお進みください。私は自分で道を切り開きます」と答えたと伝えられる。公主は一計を案じ、柴紹には間道を抜けて太原へ向かわせ、自分は鄠県に逃れた。そして家財を散じて兵を募り、数百人を得て、父の起兵に呼応した。そのころ何潘仁が司竹園に拠って総管を称していた。公主は家奴の馬三宝を派遣してこれを降し、ともに鄠県を攻めた。さらに武功・盩厔・始平を攻め取り、李仲文・向善志・丘師利らも下した。部衆には法を守ることを誓わせ、略奪を禁じたので、関中の近隣で公主につく者が多く、兵は7万に及んだという。李淵の軍が黄河を渡ると、公主は渭北で李世民の軍と合流した。柴紹と公主はそれぞれ幕府を置いて長安の平定にあたり、公主の部衆は娘子軍と号された。李淵が唐を建てると、平陽公主に封ぜられた。李淵は、ほかの18人の娘のなかでも、とくに公主を厚く遇したとされる。
公主が守備していたという娘子関には、次のような話も伝わる。もとは葦沢関と呼ばれていたが、公主が駐屯したことにちなんで改名されたという。劉黒闥の軍が攻め寄せたとき、兵力が足りず危機に陥った公主は、民とともに新米で粥を作り、夜のうちに関前の渓谷へ流し込んだ。翌朝それを見た敵兵は馬の尿と思い込み、関に翻る旗や鬨の声から援軍が着いたと錯覚して、伏兵を恐れて退いた。そのうえ、のちに本物の援軍が太原から到着したという。
武徳6年(623年)、公主は亡くなった。死因は分かっておらず、二人目の息子の出産によるとする説や、戦傷の影響とする説などがある。葬儀では、李淵が羽葆・鼓吹・大路・麾幢・虎賁・甲卒・班剣の礼を加えた。葬礼をつかさどる太常が、婦人の葬儀に鼓吹の礼は昔からないと反対すると、李淵は「鼓吹は軍楽である。公主の身で金鼓をとり、軍命に参じたものが、昔にいたか。鼓吹を用いるにふさわしいではないか」と答えて退けた。さらに李淵は、かつて公主が司竹で兵を挙げ、みずから金鼓を執って天下平定の勲功を立てたと述べ、周の文母が十乱の臣に列せられたように、公主の功績は建国を助けるものであり、普通の婦人の及ぶところではないと語ったという。これにより公主は、中国の歴代で軍葬の栄誉を受けた唯一の女性とされる。夫の柴紹との間には、柴哲威と柴令武の二人の息子がいた。
後世、公主は明清の演義小説にしばしば登場し、兵を募って県城を攻略し、李世民の軍と合流する話がよく描かれた。『隋史遺文』では、16歳ほどの公主を三国時代の孫権の妹になぞらえ、針仕事より弓や剣に向き、『烈女伝』よりも兵法書を好んだと描く。『大唐秦王詞話』では、公主が病床で李世民に李建成と李元吉への警戒を促す場面もある。『隋唐演義』には、柴紹が公主の布いた陣法を破って夫婦になる場面もあるが、これは物語中の脚色である。
同じ年に亡くなった人物
- Finbarr of Cork (623年没)
同じ地域に関係する人物
該当人物はまだありません。