HISTORICAL PERSON · 1798年没

スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ

ポーランド・リトアニア共和国最後の国王として1764年から1795年まで在位した。5月3日憲法の時代に国を率いたが、国は1795年に幕を閉じた。

生涯
1798年没
死亡地
ロシア連邦(サンクトペテルブルク)
出生地
ベラルーシ共和国(Vowchyn)
出典
世界地図
ロシア連邦(サンクトペテルブルク)

伝記

スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキは、ポーランド・リトアニア共和国の最後の国王である。1732年1月17日に生まれ、1764年から1795年まで在位し、1798年2月12日に没した。スタニスワフ2世アウグストとも呼ばれる。

ブジェシチ近郊のヴォウチンで生まれ、元の名はスタニスワフ・アントニといった。父のスタニスワフ・ポニャトフスキ伯爵は啓蒙主義者で、チャルトリスキ家が率いる党派ファミリアの一員として頭角をあらわした。1752年、20歳になったばかりで国会議員に当選し、雄弁で注目を集めた。若くして国政に進めたのは、有力な貴族家門チャルトリスキ家の伯父たちの支援が大きかった。1755年には、伯父たちのおかげでリトアニア大膳官の地位を手に入れ、ロシア駐在のイギリス大使の秘書としてサンクトペテルブルクに赴任した。エリザヴェータ女帝や宰相ベストゥージェフ=リューミンの覚えもよく、ザクセン公使としてロシア宮廷に出入りする資格を得た。そこで、のちの女帝エカチェリーナ2世となる大公妃エカチェリーナ・アレクセーエヴナと知り合った。大公妃はこのハンサムで有能な若い貴族に入れ込み、他の愛人をすべて捨てるほどだったという。2人の間には娘まで生まれたが、1759年にロシア宮廷の陰謀事件に巻き込まれて帰国せざるを得なくなった。

1762年にエカチェリーナ2世が即位し、直後にアウグスト3世が没すると、女帝は元愛人を王位につけてポーランドへの影響力を強めようとした。ロシア軍を後ろ盾にしたファミリアがクーデタで政権与党となり、1764年9月7日に32歳でワルシャワ郊外のヴォーラで国王に選出された。先代2人の国王の名からスタニスワフ・アウグストと名乗った。戴冠式は同年11月25日にワルシャワで行われた。チャルトリスキ家は、自分たちをないがしろにする国政運営を快く思わず、ファミリアの構想に基づく経済改革に着手したものの、1766年に伯父たちと決裂してからは進まなかった。ロシアの内政干渉は強まり、1768年に共和国は法的にロシアの保護国となった。反対する貴族たちはバール連盟を結成し、ロシア軍と戦い始めたが、国王はロシア軍への支持を貫き、1771年には連盟の参加者によって一時誘拐され、軟禁された。1772年に第一次ポーランド分割が行われ、領土と人口の約3分の1を失った。

一方で、文化と教育には大きく貢献した。1765年に騎士学校を創設し、タデウシュ・コシチュシュコらを輩出した。1773年には、世界で最初の国家教育省とされる国民教育委員会を設立した。1765年から週刊新聞『モニトル』を発行し、木曜晩餐会は首都で最も重要なサロンの一つとなった。ワルシャワ国立劇場も設立した。

1788年から1792年の4年議会で、愛国派と手を組み、1791年に5月3日憲法の制定にこぎ着けた。しかし、憲法の廃棄を求めるタルゴヴィツァ連盟が結成され、エカチェリーナ2世の協力でロシア軍が進軍して、ポーランド・ロシア戦争が始まった。国王が連盟に参加すると国王軍の士気は衰え、戦争は敗北に終わり、新憲法は廃止された。1793年に第二次、1795年10月24日に第三次分割が行われ、共和国は消滅した。同年11月25日、国王は強制的に退位させられ、サンクトペテルブルクで、監視下に置かれながら、ロシア政府から多額の年金を受けて余生を送った。遺骸は1995年にワルシャワの聖ヤン大聖堂に移された。

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