伝記
ゲオルク・クリストフ・リヒテンベルクは、1742年7月1日に生まれ、1799年2月24日に没したドイツの科学者であり、風刺家である。親英家として知られた。ドイツで初めて実験物理学専門の教授となり、今日では死後に見つかったノートでよく知られる。樹状の奇妙なパターンを発見したことでも名高く、それはリヒテンベルク図形と呼ばれる。
子だくさんの牧師ヨハン・コンラート・リヒテンベルクの17番目の末っ子として生まれた。父は教会内で着実に昇進し、ダルムシュタットの教区長になった。当時の聖職者としては珍しく、科学的な知識も豊かだった。ゲオルクは10歳まで両親に学び、それからダルムシュタットの学校に通った。幼い頃から知能と機知に恵まれていた。数学を学びたがったが、両親には授業料を払う余裕がなかった。1762年に母がヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ8世に学資の提供を願い出て、十分な援助を得た。1763年にゲッティンゲン大学に入学し、1769年に物理学の員外教授、6年後に教授となり、亡くなるまでその職にあった。のちに脊椎が変形してせむしとなり、当時の基準から見ても背が低く、年とともに症状が進んで、呼吸にも影響が出た。
講義に器具を使った実験を導入した最初の科学者の一人で、当時のヨーロッパの学界で最も尊敬を集めた。ゲーテやカントとも親しく、1784年にはボルタが、彼とその実験を見るためにゲッティンゲンを訪れた。数学者ガウスも講義を聴いた一人である。1793年に王立協会のフェローに選ばれた。物理学者としては電気の研究で知られ、とくに誘電体の上の放電が枝分かれするパターンを発見した。1777年には、静電誘導で静電気を生む大きな電気盆を作り、直径は2メートル、最大で約38センチメートルの火花を出した。これを使ってゼログラフィの基本原理を発見している。高電圧を絶縁体の近くで放電させると、固定した塵に樹状のパターンを記録できた。これはフラクタルの例とされる。フランクリンの避雷針をいち早くドイツに持ち込み、自宅と物置小屋に設置した。世界で使われる紙の寸法の標準規格の基となる案も提案した。
教え子に招かれて、1770年と1774年から翌年にかけてイングランドを2回訪れた。ジョージ3世と王妃に手厚く歓待され、リッチモンドの天文台で王を案内し、哲学教授への就任も提案されたという。クックの航海の関係者とも会い、イギリスから強い印象を受けて、親英家となった。恋多き男で、相手の多くは下層の娘だった。1777年に13歳の少女と出会い、1780年以降同棲したが、1782年に彼女は亡くなった。翌年に出会ったマルガレーテ・ケルナーに年金を遺すため、1789年に結婚し、6人の子ができた。何事も先延ばしする傾向があり、水素気球の実験に失敗してからは再び試そうとせず、小説を書くことを夢見たが数ページ以上は書けなかったという。
死後に知られた雑記帳は、学生時代から亡くなる直前まで書き溜められ、1冊ごとにアルファベットが振られている。引用や読んだ本の名、自伝的描写、様々な考察が書かれ、考察の部分が彼を死後に有名にした。今日では西洋史上最も有名な格言家の一人とされ、ショーペンハウアーやニーチェ、フロイト、ウィトゲンシュタインが賞賛した。月には彼の名を冠したクレーターがある。56歳で亡くなった。
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