伝記
李淵は、唐の初代皇帝(高祖)である。566年4月7日に生まれ、635年6月25日に没した。隋末の混乱のなかで太原に挙兵し、長安を落として根拠地とし、隋の恭帝を傀儡に立てたのち、禅譲を受けて唐を建国した。在位は9年で、王世充などの群雄勢力と戦い、律令の整備にも取り組んだ。626年に次男の太宗(李世民)に譲位させられ、天下統一は太宗のもとで完成した。
李氏の出自は史書では、五胡十六国の西涼の武昭王李暠の末裔で隴西郡成紀県を本貫とする漢人の名門、隴西李氏と称している。だが一族は大野という胡姓をもっていたともされ、実際は鮮卑系で、中原支配の正当化のために漢人の末裔を称したという説がある。出自については、陳寅恪が趙郡の李氏の没落した家系につながると論じるなど、中国の学界でも議論が続く。日本の学界では、西涼の李氏とは系譜がつながらず、漢人と鮮卑の混血であるとする見方が通説になっている。李淵は、北周で唐国公・安州総管を務めた李昞の子として生まれた。隴西李氏は北周の八柱国の家系で、北魏では皇后を出す資格のある家柄とされた北朝の名門である。隋の文帝の信任を得たのは、その皇后の独孤氏が叔母にあたるためだった。
隋では唐公を襲封し、千牛備身や各地の刺史・太守、衛尉少卿などを歴任した。煬帝が高句麗遠征を始めると懐遠鎮で兵站を監督し、楊玄感の乱では関右の諸軍を率いて進軍を防いだ。615年に山西河東慰撫大使となって盗賊を討ち、突厥の侵入も撃退し、617年に太原留守に任じられた。次男の李世民や劉文静らの勧めで反乱を決意し、同年6月に挙兵して南下、11月に長安を陥れた。煬帝を太上皇帝に退位させたと宣言し、代王楊侑を恭帝に擁立した。618年3月に恭帝の詔として相国への昇進と九錫の下賜を受けたが、魏・晋の建国者が上辺だけ取り繕ったと述べて相国のみを受け、九錫は固辞した。同年5月、煬帝が殺されたと知ると恭帝から禅譲を受けて皇帝となった。洛陽では王世充が鄭を、河北では竇建徳が勢力を築き、長江以南では蕭銑が梁の再興を唱え、群雄が割拠していたが、李世民らの活躍もあり、626年の退位までに梁師都を除く群雄を平らげた。
戦功を重ねた李世民に次の皇帝を期待する配下の動きに対し、皇太子李建成と斉王李元吉は、謀士の房玄齢と杜如晦を引き離すよう李淵に進言した。だが李世民は二人の先制攻撃の企てを知り、626年の玄武門の変で兄弟を殺した。李淵は直ちに譲位に同意して太上皇となり、政治から離れて静かに暮らし、635年に71歳で世を去った。即位前の正室は竇夫人で、長男の李建成、次男の李世民、三男の李玄霸(即位前に早世)、四男の李元吉らが生まれた。三女の平陽公主は柴紹に嫁いでいる。側室との間にも多くの子女があり、男子は二十二男までが記録されている。
仏教には創業当初は寛容で、法会も行い、620年には三長斎月の刑死の執行を停止した。しかし621年には隋代の寺院の多くを廃止し、626年には傅奕の上奏をもとに仏教と道教をともに廃毀する詔を出した。だが玄武門の変で退位したため、実施されなかった。没後は大武皇帝と贈られ、674年に高宗が神堯皇帝に改め、のち玄宗が749年に神堯大聖皇帝、754年に神堯大聖大光孝皇帝と改称した。
同じ年に亡くなった人物
- Khalid ibn Sa`id (635年没)
- ヒンド・ビント・ウトバ (635年没)