伝記
僖宗は、唐の第21代皇帝である。懿宗の五男で、862年6月8日に長安の東宮で生まれた。母は懿宗の妃の王氏で、貴妃の位にあった。865年に普王に封じられ、母は翌866年に没した。成長する間、側近の一人に邸の厩を預かる宦官の田令孜がいた。
873年、懿宗が重病になると、神策軍を率いる宦官の劉行深と韓文約が、年少の李儼を後継者に推した。李儼は皇太子に立てられて名を李儇と改められ、懿宗がその日に崩御すると、12歳で即位した。数日間は縁戚にあたる宰相の韋保衡が摂政を務めた。僖宗は亡き母の王氏を皇太后として追尊し、劉行深と韓文約を公に封じた。まもなく韋保衡は流され、のちに配所で自殺に追い込まれた。一方、田令孜は信任されて勢力を強め、国の重要事の多くを実際に決める存在になったといわれる。僖宗は政治を田令孜に任せ、自らは享楽にふけった。特に馬球を好み、側近の石野猪に、もし馬球の科挙があれば自分が状元になるだろうと語った記録が『資治通鑑』に残る。
在位の初めには、旱魃による深刻な飢饉が国の中心部を襲い、自然災害が連年続いて民衆は困窮した。学士の盧携は租税の免除と救済を勧め、僖宗はそれを認める詔を出したが、実際の救済はほとんど行われなかったとされる。希望を失った民は群盗となり、874年に濮州で王仙芝が、翌875年には黄巣が冤句で挙兵し、やがて両者は合流して黄巣の乱となった。王仙芝が死ぬと黄巣が指導者となり、浙東、福建、広州を陥れ、北上して潭州、江陵を落とし、中原へ進んだ。880年11月に洛陽を落とし、12月には長安を占拠した。宰相の盧携は自殺し、僖宗は田令孜とともに500の神策軍を率いて蜀へ逃れた。
僖宗は沙陀族の李克用に救援を求め、李克用は田陂で黄巣軍を破って関中から退かせた。黄巣は884年に自殺したが、部下に殺されたとする説もある。885年3月に僖宗は長安へ戻ったものの、各地には軍閥が割拠し、唐は実質的に数十州を治める地方政権に近い状態だった。同じ年、田令孜と河中節度使の王重栄が対立し、王重栄の求めに応じた李克用が長安に迫った。田令孜は再び僖宗を連れて鳳翔へ逃れ、無人の長安に諸道の兵が入って宮殿の大半が焼かれ、「宮闕蕭条、鞠為茂草」と形容されるほどの荒れようになった。この混乱に乗じ、邠州節度使の朱玫が襄王李煴を皇帝に擁立した。僖宗は王重栄と李克用に朱玫の討伐を命じ、朱玫とその一派数百人が殺された。戦乱が収まった888年2月、僖宗は長安に帰ったが、朝政の実権は宦官の楊復恭が握っていた。改元して文徳元年となった3月6日、僖宗は崩御した。皇位は弟の李傑、すなわち昭宗が継いだ。唐はその後も立ち直れず、907年に滅びた。側室に昭儀と晋国夫人がおり、子に建王李震、益王李陞、娘に唐興公主、永平公主がいた。
僖宗は、現代では暗愚な皇帝として知られる。長安を捨てて蜀に移った際に、一人の女官から非難されて答えられなかったという逸話があり、これは惰弱な性格を強調したものと考えられている。成都では、1日中宦官と国政を議し、重臣は外で待たせたと記録される。成都で彼を保護した現地の司令官郭祺には厚く報いるべきなのに、長安から従った軍だけを優遇したため、郭祺は怒って反乱を起こし、成都の市街に火を放って出たとも伝わる。陵は発掘調査されたが、墳丘の大きさに比べ石室は貧弱で、壁画も粗末であった。
同じ年に亡くなった人物
- ボジヴォイ1世 (888年没)
- カール3世 (フランク王) (888年没)
- アブー・ダーウード・シジスターニー (888年没)
- リンベルト (888年没)
- アンジェルジェ (888年)