伝記
メスのアルヌルフは、フランク人のメス司教で、メロヴィング朝アウストラシアの政治家である。582年ごろに生まれ、640年から646年のあいだに没したとされる。ピピン家の祖の一人であり、のちのカール・マルテルやカール大帝らカロリング家の直接の先祖にあたる。
家系については議論が多い。同時代に書かれた『聖アルヌルフの生涯』は、フランク人の非常に高貴で富める家の出としている。800年代初頭にまとめられたカロリング家の系譜は、父をアルノアルド、その母を王クロタール1世の娘ブリティルトとするが、新約聖書のイエスの系図を手本にしたもので歴史的な裏付けはない。『生涯』は父をフランク人貴族のボデギセルとしており、一族の領地はモーゼル川とマース川のあいだに広がっていたという。誕生地はロレーヌ地方のナンシー付近とされる。
青年期にはアウストラシア王テウデベルト2世の宮廷に仕え、メス司教ゴンドゥルフの教育を受け、スヘルデ川地域のドゥクスとなった。軍事にも行政にも際立った働きを見せ、ある時には六つの行政区を任されたという。596年ごろに貴族の娘ドデと結婚し、長男クロドゥルフは後のメス司教となった。次男アンセギセルはピピン1世の娘ベッガと結婚してピピン2世の父となったので、アルヌルフはピピン2世の祖父、カール・マルテルの曾祖父、カール大帝の五世の祖にあたる。
当時のアウストラシアの実権は、テウデベルトの祖母ブルンヒルドが握っていた。613年、アルヌルフはピピン1世と組んでフランク貴族たちを率い、その政権を打倒した。ブルンヒルドは凄惨な拷問の末に殺され、ネウストリア王クロタール2世のもとでフランク王国は再統合された。アルヌルフは友人ロマリクスとレランス諸島の修道院に入ろうとしたが、行政手腕を買っていたクロタール2世から空位だったメス司教の座を提案された。妻がすでにトレヴェスの女子修道院で尼僧となっていたため、これを神の意思と考えて聖職者となり、のち司教に就いた。メスの司教であったのは613年から628年とされる。以後も家令として王に仕え、アウストラシアの統治に大きな役割を果たした。623年、クロタール2世が長男ダゴベルト1世をアウストラシア王とすると、ダゴベルトはピピン1世を宮宰に任じ、アルヌルフとピピンの補佐を受けて統治した。624年には二人がダゴベルトを動かし、アギロルフィング家の有力貴族クロドアルドを殺害させた。
宗教生活に惹かれていったアルヌルフは、628年ごろに引退して自領のヴォージュ山脈に引きこもり、修道僧となった。そこにはすでに613年ごろ、友人ロマリックがアマトゥスとともにルミルモン修道院を建てていた。629年にクロタール2世が死去するとハベンドゥム付近へ移り、そこで亡くなり、のちにルミルモンに埋葬された。カトリック教会で聖人とされ、絵画では羊飼いの杖とともに描かれる。伝説も多い。戦争や殺人を率いた罪の意識に苦しんだアルヌルフが、モーゼル川の橋から司教の指輪を投げ込み、赦されるなら徴として返してほしいと祈った。長い懺悔の末、漁師が持ち込んだ魚の腹から指輪が出てきたため、神の徴と悟って司教を辞し、隠者として余生を送ったという。また、辞任の際に王宮の地下室から出た火を、十字を切って退けたという話や、遺骨を受け取りにルミルモンへ向かった人々の壺のビールが増えて渇きを癒したという話も伝わる。
同じ年に亡くなった人物
- ピピン1世 (640年没)
- Al-Shifa' bint Abdullah (640年)
- サフィーヤ・ビント・アブドゥルムッタリブ (640年没)
- Eadbald of Kent (640年)
- ビラール・ビン=ラバーフ (640年没)
同じ地域に関係する人物
- ジュリー=ヴィクトワール・ドービエ (1874年没)
- Henri Lepage (1996年没)
- ジェラール (ロレーヌ公) (1070年没)
- ロベール・ド・フレール (1927年没)
- ジャック・ジョルジュ (2004年没)