伝記
ピピン1世は、カロリング家の祖とされるフランク人で、「大ピピン」あるいは「ランデンのピピン」とも呼ばれる。580年ごろに生まれ、640年に没した。メロヴィング朝のクロタール2世、ダゴベルト1世、シギベルト3世の治世に、アウストラシア王国の宮宰を務めた。
出自ははっきりしない。同時代の文書には両親の名が見えず、聖女ゲルトルーディスの伝記は、先祖の名と栄光を知らぬ者はヨーロッパにいないほど高貴な家柄だと述べるにとどまる。のちの系譜は、アウストラシアの宮宰だったカールマン(カルロマン)を父とするが、同時代の記録でそのような宮宰の存在を確かめることはできず、歴史家の意見は分かれている。ランデンとの結びつきは12世紀のブラバントの年代記作者が作り上げたとする研究もあり、後世にはブラバント公爵家の最初の人物とされ、領地の名にちなむ「ランデンの」という呼び名が今も用いられている。母については何も伝わらない。ただ、姉妹にヴァルドラーデ、子にグリモアルドとゲルトルーディスがいて、これらはアギロルフィング家に見られる名前であることから、母がその家とつながっていた可能性が論じられている。
ピピンの名が初めて史料に現れるのは613年である。この年、アウストラシアの貴族たちは、王妃ブルンヒルドを退けるため、ネウストリア王クロタール2世に呼びかけて王国の征服を促し、ピピンはその一人で、アルヌルフも使節に加わった。ブラバントの広い地域を支配する有力者でもあった。クロタール2世はアウストラシアを制圧すると、ピピンに長男でのちのダゴベルト1世の養育を任せた。623年には、ピピンやメス司教となったアルヌルフらアウストラシアの有力者が、独自の王を求めてクロタール2世に願い出た。クロタール2世はこれに押されて息子ダゴベルトをアウストラシア王とし、ピピンを宮宰に任じた。宮宰の在職は615年あるいは623年から629年までとされ、624年からとする説もある。
629年、ダゴベルトは父の跡を継いで王国全体の王となると、父が付けた助言者たちを遠ざけた。アルヌルフはメス司教の座を去って隠遁し、ピピンも退けられて、公爵アダルギゼルが後任となった。ダゴベルトが639年に亡くなると、ピピンはクニベルトと手を結んでアウストラシア王シギベルト3世に合流し、再び宮宰に任じられた。ピピンは、シギベルトの取り分である王の財宝の三分の一を受け取るためコンピエーニュへ向かうよう命じられた。未亡人で摂政のナンティルドと、クローヴィス2世・シギベルト3世の兄弟のあいだで国庫金や遺産が分けられる際の監督も務めた。しかし、復帰の成果を享受することなく、まもなく640年に亡くなった。
妻イッタは、アキテーヌの元老院階級の家の出で、トリーアの司教モドアルドの姉妹とされる。二人のあいだには一男二女が生まれた。息子グリモアルドは615年ごろの生まれで、のちにアウストラシア宮宰となったが、657年に暗殺された。娘ベッガはアンセギセルと結婚してピピン2世をもうけた。ピピン2世はカール・マルテルの父であり、ピピン1世はカール・マルテルの曾祖父にあたる。もう一人の娘ゲルトルーディスは、イッタが設立したニヴェル女子修道院の院長となり、母とともに列聖された。ピピンの遺骸はランデンの領地に葬られ、数年後に妻の手でニヴェルへ移された。ピピン自身は列聖されていないが、いくつかの古い殉教録には聖人として挙げられている。
同じ年に亡くなった人物
- ガリバルド2世 (640年)
- セウェリヌス (ローマ教皇) (640年没)
- Sak K'uk' (640年没)
- Al-Shifa' bint Abdullah (640年)
- ビラール・ビン=ラバーフ (640年没)
同じ地域に関係する人物
- クリスチャン・ドートルモン (1979年没)
- フェルナン・ルドゥー (1993年没)
- マリベル・ビンソン (1961年没)
- ジェフ・シェーレン (1986年没)
- ゴドフロワ1世 (ルーヴェン伯) (1139年没)