伝記
コンスタンティノス3世は、東ローマ帝国ヘラクレイオス王朝の第2代皇帝である。612年5月3日に生まれ、641年5月24日に没した。在位は641年で、わずか数週間にすぎない。初代皇帝ヘラクレイオスの長男で、先妻ファビア・エウドキアとの子であり、本名はヘラクレイオス・ネオス・コンスタンティノスという。
父ヘラクレイオスは、アルメニア系の出身だった可能性が高いとされ、父のヘラクレイオス長老がアフリカ総督に任じられたため、青年期の大半をアフリカで過ごした。この地で、土地の富裕な地主ロガスの娘ファビア・エウドキアと出会って結婚した。608年、父子は皇帝フォカスに対して反乱を起こし、ヘラクレイオスは艦隊を率いてコンスタンティノポリスの近くに上陸し、フォカスを捕らえて処刑した。こうして即位した父は、早くから身内に頼り、ニケタスはエジプト総督となり、兄弟のテオドロスも支えた。それでも父の権力は、反乱によって得たものであるため脆く、ササン朝ペルシアの攻勢で国境も揺らいでいた。
コンスタンティノスは、母が亡くなる少し前に生まれ、おそらくソフィアの宮殿で育った。当時の宗教界で最も名高い人物の一人だったシケオンのテオドロスから祝福を受け、洗礼を受けている。父は、敬虔さで知られ、先帝たちとも親しかったこの人物と結びつくことで、自らの権力を強めようとしたのだろう、とフランス語版の資料は述べる。生後数か月で共同皇帝に戴冠し、競馬場で元老院と市民の党派から歓呼を受けた後、ハギア・ソフィア大聖堂に導かれた。母は誕生の直後に没していたから、皇帝が幼い息子に冠を与えたのは、後継を整え、一族を帝国の首座に据えようとする意思の表れだったと考えられる。613年に父が遠征に出た後も、彼は首都に残った。父の貨幣にも早くから姿を現し、632年には執政官の位に上げられた。
幼い頃から病弱だったらしい。父が622年に首都を出て、ペルシアとの戦いで長年指揮を執る間も、彼はおおむね首都にとどまった。624年にはニコメディアまで父に同行したが、すぐにコンスタンティノポリスに戻っている。実際の権力は、総主教とボヌス将軍が共同で握っていたと、フランス語版の資料は述べる。630年代にも、彼は父に随行せず、親子の関係がどうだったのかは分かりにくい。
641年、帝国が危機的な状況にある中で、父の死により即位した。その短い治世は、帝国の安定と、自らの帝位、息子の権利を、マルティナの野心から守る試みに費やされた。父の遺詔により、継母マルティナ(ヘラクレイオスの姪で後妻)の息子ヘラクロナスと共同統治することになったが、宮廷では、両者の派の間で争いが起こった。彼は、この争いの最中に没した。フランス語版の資料は、死因を結核とみる一方、日本語版の資料は、マルティナによる毒殺だという噂があったと記す。マルティナはヘラクロナスの後見人として権力を握ろうとしたが、彼の派や、伯父と姪の結婚を嫌う首都の市民の要求により、彼の息子コンスタンスを共同皇帝に立てざるをえなかった。フランス語版によれば、コンスタンスは軍の反乱の末に帝位へ上げられたが、この反乱は、彼が死ぬ前に、一部を計画していたものかもしれないという。
同じ年に亡くなった人物
- 欧陽詢 (641年没)
- ヘラクレイオス (641年没)
- マルティナ (東ローマ皇后) (641年)
- 舒明天皇 (641年没)
- Arechis I of Benevento (641年)
同じ地域に関係する人物
- セラハティン・ウルクメン (2003年没)
- アガペトゥス1世 (ローマ教皇) (536年没)
- Eustathius of Constantinople (1025年没)
- メティン・オクタイ (1991年没)
- Patriarch Germanus V of Constantinople (1920年没)