伝記
欧陽詢は、初唐の儒家であり書家である。字は信本。永定元年(557年)に生まれ、貞観15年(641年)に没した。本貫は長沙郡臨湘県で、南朝陳の広州刺史を務めた欧陽紇の子にあたる。子には欧陽愷、欧陽粛、欧陽倫、欧陽通がいる。陳寅恪の研究によれば、その血統は南蛮に連なるという。生まれは長沙で、官僚の家に育ち、没したのは現在の安徽省の地とされる。
若いころから学問に優れ、経書を広く読んだ才能ある学生だったと伝わる。隋では太常博士に任じられ、その時期は大業元年(605年)とも611年ともいわれる。唐に入ると貞観の初めに太子率更令となり、また監察の官や弘文館の学士として書を教えた。『芸文類聚』の編纂にも中心的に関わった。教養ある学者であり官僚と見られ、のちに宮廷の書家として、皇帝にまつわる重要な碑をいくつも書いた。虞世南、褚遂良、薛稷とともに初唐の四大家と呼ばれ、初唐の三大家の一人にも数えられる。
代表作は多く、いずれも楷書に優れた。貞観中の書とされる皇甫誕碑は、隋で名高い皇甫誕の碑を、唐になって子の皇甫無逸が追って建てたもので、于志寧が文を撰し、欧陽詢が書いた。全28行、各行59字で、西安に現存する。1596年に割れており、それ以前の拓本は未断本と呼ばれる。刻字は風化や磨滅で次第に欠け、清の初めには「無逸」の2字が残っていたため無逸本ともいうが、近年の拓本ではこの2字も消えている。貞観5年(631年)の化度寺邕禅師塔銘は、三階教の僧である邕禅師の舎利塔銘で、李百薬が文を撰し、長安の南山にある信行禅師の霊塔の左に建てられた。清の翁方綱によれば全34行、各行33字で、欠けた文も含めて1089字になるという。原石は宋代に失われ、整った拓本も伝わらない。貞観6年(632年)の九成宮醴泉銘は最も有名な作品である。太宗が避暑に訪れた九成宮で甘い泉が湧き、これを帝室の徳に応じた吉兆として碑に刻むことになり、勅命により魏徴が文を撰し、欧陽詢が書いた。全24行、各行50字で、陝西省麟遊県に現存する。書体は隋代の方形から脱して長方形の特色を成し、王羲之の楷書を離れて隷書の筆法を交えた、清らかで潤いのある風格をもつ。貞観11年(637年)、80歳のときには温彦博碑を書いた。温彦博は太宗に仕えて尚書右僕射となり、虞国公に封ぜられて恭と諡された人で、昭陵に陪葬された。碑文は岑文本が撰したが、下部の多くの文字が古くから失われ、宋代の拓本でも上半の1行20数字ほどしか残らない。全36行、各行77字である。
このほか、開元通宝という銅銭の文字を書いたとされ、この銭は中国史上きわめて影響力のある貨幣となり、日本、ソグディアナ、ベトナムの貨幣の書風にも影響を与えたという。日本の朝日新聞の題字の文字は、欧陽詢の書から取られたものである。その楷書は端正な字形で、日本では昭和時代から小中学校の教科書の手本にも採り入れられ、後世に大きな影響を残した。
一方、欧陽詢は猿に似た醜い容貌と超人的な知力の持ち主として知られ、7世紀後半の作者不詳の物語『補江総白猿伝』にその風評が戯画化されている。物語では、南方を平定中の将軍欧陽紇の美しい妻が姿の見えない力にさらわれ、将軍は白猿の棲む山で彼女を見つけ出す。女たちの計略で猿を酔わせて倒すと、猿は妻が身ごもっていると明かし、子を殺さぬよう願って死ぬ。1年後に名のない男児が生まれたとして終わり、欧陽詢が白猿の子であることをほのめかす話となっている。
同じ年に亡くなった人物
- Sa'id ibn Amir al-Jumahi (641年)
- ヘラクレイオス (641年没)
- 武王 (百済) (641年没)
- Bridei II (641年)
- コンスタンティノス3世 (641年没)