HISTORICAL PERSON · 649年没

ソンツェン・ガンポ

古代チベットの王で、吐蕃を樹立し、初めて仏教を導入した人物とされる。宰相ガル・トンツェンの補佐で吐谷渾などを破り、官位十二階制度を設けた。唐から文成公主を迎え、中国とインドの文化を取り入れた。

生涯
649年没
死亡地
中華人民共和国(チベット自治区 / チベット)
出生地
中華人民共和国(ラサ市)
出典
世界地図
中華人民共和国(チベット自治区)

伝記

ソンツェン・ガンポは、古代チベットの王で、チベット初の統一王国である吐蕃を築いた人物である。本名はティ・ソンツェンといい、ソンツェン・ガンポは後世の尊称である。漢文では松賛干布、棄宗弄讃と表記される。生年は581年ごろとも605年とも伝えられて定まらず、没年は649年とも650年ともいわれる。ラサ南東のヤルルン地方の部族長ナムリ・ソンツェンの子として生まれたとされ、母はティサ・トカルと伝わる。

13歳のとき、父によって名目上の王に立てられたが、数年後に政敵によって父が毒殺された。これを機にシャンシュン族やスムパ族、さらに王家の親族であるコンポ、ニャンポ、タクポが独立を図った。ソンツェン・ガンポは苛烈な報復を行って支持を失い、608年にはカム地方の家臣団が「附国」を称して独自に隋へ朝貢した。しかし翌609年に隋の煬帝の攻撃を受けた吐谷渾の王が黄河上流域に逃げ込むと、情勢が変わる。宰相ニャンの説得で、長年吐谷渾に攻められていたスムパ族のパイラン氏が吐蕃に臣従し、附国も再び吐蕃に従った。のちには宰相ガル・トンツェンの補佐を受けてチベット高原の大部分を支配下に置き、吐谷渾やパイラン、タングートなどの周辺の部族に勝利した。640年ごろまでに領域は、北東はツァイダム地方、東は松州、西はラダック、南はヒマラヤ山脈に及んだ。

内政では、620年ごろに官位十二階制度を設けた。従来は王と氏族の長が定期的に君臣の関係を更新していたが、この制度で氏族長の一族に身分を保証する代わりに永続的な君臣関係を築き、王は氏族長の下にある土地と民衆を一括して管轄できるようになった。日本の冠位十二階との共通性も指摘される。また、620年以前に王女を吐谷渾に嫁がせて近づき、政治・軍事制度を学び、軍管区制度も取り入れた。南のリッチャヴィ朝ネパールとは同盟を結び、平和が保たれた。

唐との関係では、636年に太宗のもとへ妃を迎える使者を送ったが拒まれた。同年、20万の兵を率いて吐谷渾に出兵して松州に迫ったものの、唐に敗れた。その後あらためて求婚の使者を送り、ガル・トンツェンに金五千両を結納として持たせた。638年には息子のグンソン・グンツェンが即位し、641年に唐の文成公主がその妃として迎えられた。グンソン・グンツェンは、公主がチベット人の赭面の習慣を嫌がると、国中にこれを禁じる命令を出したという。伝承ではグンソン・グンツェンが13歳で王位に就いて5年ほど統治したとも語られるが、643年に23歳で死去したとも伝わり、ソンツェン・ガンポが再び王位に就いた。

ソンツェン・ガンポは文成公主のほか、ネパールの有力者の娘ティツゥンも妃に迎えた。ティツゥンはトゥルナン寺(大昭寺)を、文成公主はラモチェ寺(小昭寺)をラサに建て、インドと中国の仏教文化がもたらされた。王の衣服は毛織物から絹に変わり、豪族の子弟は長安に留学して詩文を学ぶようになったという。ただし自身は仏教の布教に熱心ではなく、死後は仏教以前の儀礼で葬られたとされる。大臣トンミ・サンボータをインドに派遣してチベット文字を作らせたとの伝承があるが、史実性は疑わしい。それでも、唐に紙や墨の技術者の派遣を要請したことや、649年に始まるチベットの年代記が見つかっていることから、記録は彼の治世に始まったと考えられる。彼の事績は早くから伝説化し、転輪王にも擬せられた。死後は孫のマンソン・マンツェンが王となったが、実権は宰相ガル・トンツェンが握っていた。

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