伝記
太宗は、唐の第2代皇帝で、名を世民という。高祖李淵の次男で、母は竇氏である。隋の開皇18年(598年)12月、武功の別館で生まれたとされ、西暦では599年1月23日と記す表記もある。生まれたとき、二匹の龍が館の門外で遊び、三日後に去ったという話が伝わる。4歳のとき、李淵のもとを訪れた書生が、その姿を見て、二十歳に近づけば必ず世を救い民を安んじるだろうと語った。李淵はこの言葉が漏れるのを恐れて人を遣わして追わせたが、書生は忽然と姿を消し、そこで「済世安民」の意から世民と名付けたと伝えられる。
幼い頃から聡明で見識が広く、事に臨んで果断だったという。大業末年、隋の煬帝が突厥に雁門で包囲されると、16歳の世民は救援に志願し、屯衛将軍雲定興の軍に加わった。旗や太鼓を多く携え、軍を数十里に広げて夜に鉦や太鼓を打ち交わせば、敵は援軍が集まったと思い逃げるだろうと進言した。雲定興がこれに従うと、突厥の偵察の騎兵は始畢可汗に官軍の大挙来援を急報し、突厥は包囲を解いて退いたという。李淵が太原を鎮守していた18歳のときには、魏刀児の軍に包囲された父を、精鋭の騎兵を率いて敵の包囲を破り、救い出した。隋の命運が尽きようとするなか、世民は密かに挙兵を考え、謙虚に人々に接し、財を惜しまず客を養ったため、豪傑たちが彼のために命を捨てようとした。
李淵と共に太原で挙兵した世民は、西河を攻め取り、右三軍を率いる立場になった。霍邑で隋将宋老生に阻まれ、長雨で食糧が尽きると、李淵は太原へ退こうとした。世民は、退けば義軍が散り、敵が後ろから乗じると説き、帳の外で号泣して諫めたところ、李淵は悟って撤退をやめたという。霍邑では、宋老生を城外へ誘い出し、李淵と建成の軍が退き、建成が落馬するなか、二騎を連れて高坂を駆け下り、敵陣を突き破って大勝した。関中に入ると、永豊倉の食糧で貧民を救い、軍令を厳しくして略奪を許さず、長安を平定した。李淵が帝位に即くと、世民は尚書令となり、秦王に封じられた。
618年からは各地の群雄との戦いを重ねた。薛仁杲とは折墌城で60日余り対峙し、敵の食糧が尽きて士気が衰えるのを待って撃ち、追撃して降伏させた。世民は捕らえた精鋭の騎兵を薛仁杲の兄弟らに統率させ、共に狩りをして少しも疑わなかったため、降伏した者たちは死力を尽くそうとしたという。唐に帰順したばかりの李密は、世民の威風を見て「まことに英主である」と感嘆したと伝えられる。619年には、劉武周側の宋金剛に対し、守りを固めて鋭気を挫き、糧が尽きて退くのを追って破り、降伏した尉遅敬徳に、疑うことなく降兵を任せた。620年には洛陽の王世充を攻め、黄河以南の諸城の降伏を得た。慈澗では、少ない兵で敵の大軍に囲まれたが、自ら殿軍となって弓で追手を退け、敵将燕頎を捕虜にしたと伝わる。
そののち、626年には玄武門の変を起こして兄の李建成らを誅殺し、父から譲位されて帝位に即いた。広く人材を登用して官制を整え、貞観の治と呼ばれる太平の世を築いたとされ、対外的には東突厥を破って、西北の遊牧民の首長から称号を贈られた。軍事にも文治にも優れた中国史上有数の名君と称えられる。649年7月10日に亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- テオドルス1世 (ローマ教皇) (649年没)
- ヨアンネス・クリマコス (649年没)
- ソンツェン・ガンポ (649年没)