伝記
アンゲリカ・カウフマン(アンジェリカ・カウフマン)は、1741年10月30日にスイスのクールで生まれ、1807年11月5日にローマで没した、スイス出身のオーストリア人新古典主義画家である。本名はマリア・アンナ・アンゲリカ・カタリーナ・カウフマンといい、育ったのは一家の出身地であるオーストリアのフォアアールベルク州シュヴァルツェンベルクだった。
父ヨーゼフ・ヨーハン・カウフマンは貧しいが熟練した画家で、絵のためによく旅をし、娘にも絵を教えた。母クレオフェア・ルッツからは複数の言語を教わった。音楽の才能も示したが、際だっていたのは絵画だった。12歳のとき、聖職者や貴族が絵のモデルになったことで有名になり、1754年には父にミラノへ連れて行かれた。続いて長期間イタリアを旅行し、1763年にはローマを訪れた。1764年に帰国する途中、ボローニャやヴェネツィアでも、その才能と魅力が歓迎された。ヴィンケルマンは1764年8月の手紙でカウフマンの人気に触れ、彼女がドイツ語と同じくらい上手にイタリア語を話し、フランス語や英語も解し、ローマを訪れたイギリス人に人気の肖像画家になっていると記した。「彼女は美しいと言えるかも知れない」とも書く。カウフマンはヴィンケルマンの半身肖像画とエッチングを描いている。
ヴェネツィア滞在中、ドイツ大使の妻ウェントワース夫人に誘われてロンドンに同行し、デヴィッド・ギャリックの肖像画を描いた。夫人は彼女を社交界に紹介し、とくに王族が好意を示した。サー・ジョシュア・レノルズは大の親友で、1766年に互いの肖像画を描き合った。1767年11月頃には、スウェーデンのホルン伯爵を偽った冒険家に騙されて秘密の結婚をしたが、レノルズが窮地から救った。ロイヤル・アカデミー設立の請願書に署名したのは、その尽力に報いるためだったのだろうとされる。1769年から1782年まで毎年出展し、テーマは概して古典的または寓意的で、最も有名なのは『フランシス1世の腕の中で息を引き取るレオナルド』(1778年)である。1773年にはセント・ポール大聖堂の装飾の仕事も依頼された。1775年、同僚のホーンが風刺画『魔術師』でカウフマンとレノルズの友情を批判し、ヌードの戯画も描いたが、後に自ら塗りつぶした。
カウフマンの強みは、18世紀アカデミック絵画で最も上流で金になる歴史画にあった。ところが、イングランド人が歴史画に比較的無関心なことに失望し、歴史画が尊ばれる大陸に戻った。長く別居していた最初の夫の死後、1781年にヴェネツィアの画家アントニオ・ズッキと再婚した。まもなくローマへ行き、ゲーテらと親交を得た。ゲーテは『イタリア紀行』で、彼女を自分の知るどんな画家よりも忙しく働き熟達していると書いた。1782年に父が、1795年に夫が亡くなり、最後の出展は1797年であった。その後は小品を描き、1807年にローマで没すると、カノーヴァの指揮で壮麗な葬儀が営まれ、ラファエロの葬儀と同じように、彼女の絵も運ばれた。
作品の名声は長く続かず、描かれた人物には多様性と表情が欠けると言われたが、色使いは鮮やかだった。彼女のデザインによるバルトロッツィらの版画は、収集家に今も人気がある。1966年から発行された旧100オーストリア・シリング紙幣に肖像が使われた。シュヴァルツェンベルクには、彼女の名を冠したコンサート・ホールがあり、国際的な音楽祭の主会場となっている。
同じ年に亡くなった人物
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- ピエール・マリー・オーギュスト・ブルソネ (1807年没)
- パスカル・パオリ (1807年没)
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- オスマン・パズヴァントグル (1807年)
同じ地域に関係する人物
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