伝記
マリア・デ・モンペリエは、アラゴン王ペドロ2世の王妃で、ハイメ1世の母である。1182年ごろ(1180年から1183年のあいだ)にモンペリエで生まれ、1213年4月21日にローマで亡くなった。モンペリエ領主ギレム8世と、ビザンツ皇帝の姪にあたるエウドキア・コムネナとのあいだの子である。両親が1181年に結婚したとき、最初に生まれた子が女子であってもモンペリエを継ぐことが決められていた。
1187年に両親が離婚し、父ギレム8世は、男子をもうけるためにイネス・デ・カスティーリャと再婚した。教会は当初、エウドキアとの離婚を無効としたが、1202年に再婚が認められた。1181年の取り決めにもかかわらず、モンペリエは、マリアではなく、イネスとのあいだの息子に継がれたが、のちにマリアに相続の権利が認められた。マリアは、父や継母、夫たち、モンペリエの有力者たちの思惑に翻弄される一生であった。
1194年ごろ、10歳から12歳のマリアは、マルセイユ副伯バラル・デ・ボーと結婚した。バラルはまもなく亡くなった。父と継母は、マリアをコマンジュ伯ベルナール4世と再婚させ、異母弟たちのためにモンペリエの領主権を放棄する文書に署名させた。この結婚は長く続かず、マリアはモンペリエに戻って、この結婚を無効とみなした。ベルナール4世は離婚した。この結婚から、マティルドとペトロニーユの2人の娘が生まれた。
1204年に、異母弟に対するモンペリエの市民の反乱ののち、マリアは相続を取り戻した。同年6月15日、マリアは、モンペリエの領地を獲得するもくろみのあったアラゴン王ペドロ2世と結婚した。ペドロとマリアは、テンプル騎士団の館で、町の慣習を守ると約束する123条の「慣習と自由の憲章」を結んだ。モンペリエを手に入れたペドロはマリアを遠ざけるようになったが、マリアは一計を案じて、ひとり息子のハイメ(のちのハイメ1世)をもうけた。ある筋の話では、マリアは真夜中にペドロの愛人のふりをして彼を寝室に誘い、のちに意気揚々と妊娠したことを明かしたという。ほかに、幼くして亡くなった娘サンチャがいた。
1209年の最初の遺言で、マリアは、テンプル騎士団を息子の保護者と定めた。1213年には、教皇インノケンティウス3世の支持と、結婚が解消されないという保証を得ようとローマへ行き、望みはかなえられたが、病にかかり、ローマで没した。毒殺されたとの説もある。サン・ピエトロの近くの、いまはない教会に葬られた。最後の遺言では、教皇を遺言執行者とした。
同じ年に亡くなった人物
- フセヴォロド・スヴャトスラヴィチ (キエフ大公) (1213年(推定))
- 康宗 (高麗王) (1213年没)
- Mkhitar Gosh (1213年)
- フェリー2世 (ロレーヌ公) (1213年没)
- タマル (グルジア女王) (1213年没)
同じ地域に関係する人物
- アルベルト・ベヴィラックァ (2013年没)
- カルロ・アツェリオ・チャンピ (2016年没)
- グラツィア・デレッダ (1936年没)
- ルイス・バカロフ (2017年没)
- ステファヌス6世 (ローマ教皇) (897年没)