HISTORICAL PERSON · 658年没

褚遂良

唐代の政治家・書家で、初唐の三大家の一人。太宗に仕えて諫言をよくし、高宗の教育にもあたった。武則天を皇后に立てることに反対して左遷され、愛州で死去した。『雁塔聖教序』は楷書の最高傑作の一つとされる。

生涯
658年没
死亡地
ベトナム社会主義共和国(タインホア省)
出生地
中華人民共和国(杭州市)
出典
世界地図
ベトナム社会主義共和国(タインホア省)

伝記

褚遂良は、唐代の政治家であり書家である。開皇16年(596年)に生まれ、顕慶3年(658年)に没した。字は登善。河南県公から河南郡公に封ぜられたため、褚河南とも呼ばれる。太宗に仕えて諫言をよくし、のちの高宗の教育にもあたったが、武則天を皇后に立てることに反対して左遷され、流刑地で世を去った。書では欧陽詢、虞世南とともに初唐の三大家の一人に数えられる。

父は褚亮で、杭州銭唐県の出身、本貫は河南郡陽翟県とされる。父は陳と隋に仕えた中級の官僚で文才で知られたが、煬帝にその才をねたまれ、楊玄感の反乱が613年に敗れると、彼と親しいと訴えられて西海郡の官に左遷された。遂良は父に従って遠い任地へ赴いた。617年に薛挙が自立すると、父子はその下に加わり、遂良は通事舎人をつとめた。翌618年に薛挙が亡くなり、その子が唐の秦王李世民に敗れると、李世民は父子を許した。父は李世民の幕下に入り、遂良は秦州に残って都督府の属官を務めたともいい、父とともに唐に降って秦王府の鎧曹参軍になったともいわれる。その後636年までの動静は史書に記されていないが、文学と歴史に通じ、書にすぐれて、父の友人である欧陽詢からも称賛されたという。

貞観10年(636年)、秘書郎から起居郎となって太宗の言行の記録を担当し、また虞世南が死去したことで魏徴の推薦を受けて書道顧問となった。ある時、太宗が自分についての記録を見たいと望むと、遂良は君主が史官の記述を見るのは筋が通らないと断った。太宗が「悪いことも記すのか」と問うと、遂良は「それが職務であり、記さないわけにはいきません」と答えた。劉洎が「たとえ遂良が書かなくても、天下の人が書くでしょう」と言い、太宗は二人の言葉をもっともだとした。

貞観18年(644年)に諫議大夫から黄門侍郎に進み、太宗に深く信頼された。後継問題では李治(のちの高宗)を推薦し、皇太子となった李治の傅役を任された。貞観23年(649年)に太宗が崩御する際、高宗を補佐するよう遺詔を受け、どのようなことがあっても死刑を免ずるという権利を得たとされる。高宗の即位後は中書令から尚書右僕射へと昇り、長孫無忌、李勣、于志寧とともに重鎮となった。しかし永徽6年(655年)、高宗が武照(武則天)を皇后に立てようとしたとき、遂良は強く反対したが、押し切られた。これが武則天の恨みを買い、死刑にされかけたものの、遺詔によって免れた。代わりに潭州都督、桂州都督と左遷され、最後には愛州、すなわち現在のベトナム中部にあたる地にまで流され、658年にそこで死去した。子の褚彦甫と褚彦沖もともに愛州に流されて殺害された。神龍元年(705年)に一家は名誉を回復され、爵位を戻された。

書の面では、虞世南の南派と欧陽詢の北派それぞれの特徴を吸収し融合しつつ、それを乗り越えて独自の書風「褚法」を確立した。40代の『伊闕仏龕碑』や『孟法師碑』には隷書の運筆が見られ、線は細くとも力強いと評されたが、50代の『房玄齢碑』や『雁塔聖教序』では躍動的で流麗な作風に変わった。特に653年に建てられた『雁塔聖教序』は楷書の最高傑作の一つとされ、のちの痩金体につながるなど後世に大きな影響を与えた。玄奘が持ち帰った仏典の翻訳をたたえる太宗の序と高宗の記を書いたもので、西安の大慈恩寺にある大雁塔に現存する。結体は閑雅で悠揚迫らず、変化と情趣の豊かさでは初唐の三大家の中でも最もすぐれるとされる。

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