HISTORICAL PERSON · 248年没

趙氏貞

3世紀にベトナム北中部の九真郡で呉に反乱を起こした伝説的な女性指導者。古い記録では象に乗って戦う山賊の頭目とされるが、のちナショナリズムの高まりで中国の支配に抵抗した英雄に祭り上げられた。

生涯
248年没
死亡地
ベトナム社会主義共和国(タインホア省 / ハウロック県)
出生地
—
出典
世界地図
ベトナム社会主義共和国(タインホア省)

伝記

趙氏貞は、3世紀の呉の交州九真郡(現在のベトナム北中部タインホア省)にいたとされる、伝説的な反乱指導者である。生年は黄武5年(226年)ごろ、没年は赤烏11年(248年)ごろとされるが、確かではない。古い記録では主に趙嫗の名で現れ、婆趙や趙貞娘の別名でも知られる。中国の正史である『三国志』には記載がなく、実在したかどうかは微妙だとされる。

趙嫗に関する現存最古の記事は、唐の『初学記』が劉宋の『南越志』から引いたものである。それによれば、軍安県の女子の趙嫗は山中で徒党を集め、郡県を攻め掠め、金の箱や歯のついた履をつけて、常に象の頭に居て戦ったという。北宋の『太平御覧』は、晋の劉欣期の『交州記』を引き、趙嫗を九真郡軍安県の女子とし、乳房の長さが数尺あって嫁がず、山に入って群盗を集め、郡を攻めたと記す。刺史の陸胤がこれを平定したとされる。ベトナム最古の史料である『大越史記全書』も、乳房が3尺あり、背に回して象に乗って戦ったと述べ、陸胤が平定したとする。乳房の長さは、古い中国側の記録では5尺または数尺、比較的新しいベトナム側の記録では3尺と伝わる。

背景として、226年に孫権は交趾の支配を改めて直接のものとするため3千の兵を送り、呂岱が士徽とその一族を斬り、九真を攻めて多数を殺した。孫権は交趾を交州と広州の二つに分け、231年にも九真へ将軍を送って越の諸部族を平定させたとされる。趙氏貞の生年とされる226年は士燮の没年に当たる。この反乱の年は248年とされる。『大越史記全書』によれば、九真の人々が再び城邑を攻め落とすと、呉は陸胤を刺史として送り、恩と信をもって諭した。降伏した者は3万余家に及び、州境は再び静まった。趙嫗が郡県を攻め掠めたのは、その後のことと記されている。『三国志』呉書によれば、反乱の首謀者は高涼郡の黄呉と、交趾郡・九真郡の賊帥百余人であり、陸胤に説得され、財貨を与えられて五万余家が降伏した。『大越史記全書』は降伏した首謀者を記さず、後に戦死した趙嫗が神になったと記している。正史ではない中国側の記録では、趙嫗に従っていたのは若い男十余人または数十人にすぎない。最初期の趙嫗は、この反乱の平定後に各地を荒らした山賊の頭目のような存在として記録されていた。

ベトナムで民族意識が高まると、彼女は中国の支配に抵抗した民族の英雄として祭り上げられていった。そこで作られた物語では、婆趙は赤烏11年(248年)、23歳のときに兄の趙国達らとともに孫権に対して反乱を起こし、麗海婆王と呼ばれて恐れられた。初めは連戦連勝で九真の呉軍を破ったが、交州刺史の陸胤が軍を率いて来ると半年にわたる激戦となり、平定された。最期は河に身を投げたとも、象に踏まれて死んだとも言われる。しかし、婆趙の名、23歳という年齢、兄の存在は、20世紀にチャン・チョン・キムが著した『ベトナム史略』には現れるが、古い記録には見られない。陸胤が趙氏貞を打ち破った経緯を語る逸話も、阮朝の書物以前には記録がないとされる。

英語圏の記述では、趙嫗は一時期、呉の支配に抵抗した女性戦士とされる。「嵐に乗り、外海の鯨を殺し、侵略者を追い払い、国を取り戻したい。男の妾になるために背をかがめたくはない」と語ったと伝わる。彼女の蜂起は、現代のベトナムの歴史叙述では、外国支配を終わらせる長い民族独立闘争の一章として描かれる。三国志大戦などの作品にも登場する。

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