HISTORICAL PERSON · 1811年没

ハインリヒ・フォン・クライスト

ドイツの劇作家・ジャーナリスト。生前は社会に馴染めなかったが、作品は20世紀に評価が高まり、ドイツを代表する劇作家の一人とされる。

生涯
1811年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ベルリン / 小ヴァン湖)
出生地
ドイツ連邦共和国(フランクフルト・アン・デア・オーダー)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ベルリン)

伝記

ハインリヒ・フォン・クライストは、ドイツの劇作家であり、ジャーナリストである。1777年10月18日に生まれ、1811年11月21日に没した。直情的で極端に走る性格は当時の社会になじまなかったが、作品は20世紀に入って評価が高まり、現代ではドイツを代表する劇作家の一人に数えられる。

フランクフルト・アン・デア・オーダーで、代々続く軍人の家に生まれた。ポンメルンの古い貴族に由来する名門で、17世紀以来、44人の将軍を出している。父は駐屯地の歩兵連隊の大尉で、先妻との間の二人の姉に、クライストは特に親しんだ。1788年に父を亡くし、ベルリンの寄宿学校で学んだ。1792年7月、一族の伝統に従ってポツダム近衛連隊に入り、フランス革命への干渉戦争にも従軍して、少年兵としてライン地方で戦った。軍隊生活に疑いを抱くようになったが、1797年に少尉になった。1799年3月に軍隊生活を放棄し、富でも地位でも名声でもなく、精神の修養と学問的研究を積む計画を周囲に明らかにしたが、家族には反対された。

1799年4月から、生地のヴィアドリーナ大学で数学、物理学、文化史、ラテン語と、家族を安心させるための官房学を学んだ。特に物理学の講義に興味を持ったが、すぐに書物からの知識には満足できなくなった。この年にヴィルヘルミーネ・フォン・ツェンゲと知り合い、翌年始めに婚約した。わずか3学期で大学を離れ、ベルリンの財務省で実習生として働いたのは、婚約者の家族が官僚になってほしいと望んだためである。おそらくカントの『判断力批判』を読んだことによる、いわゆる「カント危機」から、人生計画が一夜にして打ち砕かれたと姉に書いた。この危機を逃れようと旅に出て、1801年春、姉ウルリケとパリへ向かった。しかしパリに幻滅し、ルソーに刺激を受けて農民の生活を志した。1802年4月にスイスのツーン湖のアーレ島に移ったが、婚約者は同行を望まず、二人は破局した。そのころ悲劇『シュロッフェンシュタイン家』の元になる作品を書き始め、喜劇『こわれがめ』にも着手している。1803年にドレスデンでフーケやプフーエルと知り合い、再びパリへ行ったが、自らの才能への深い疑念にとらわれ、悲劇『ロベール・ギスカール』の原稿を焼き捨てた。

1805年5月からはケーニヒスベルクで非常勤職員として働き、財政を学んだ。この頃に『こわれがめ』を完成させ、『ペンテジレーア』『ミヒャエル・コールハース』『チリの地震』などを執筆した。官を辞してベルリンへ向かう途上の1807年1月、フランス占領軍にスパイの容疑で捕らえられ、収容所に入れられた。解放後の8月末にドレスデンへ着いた。1808年1月、アーダム・ミュラーと雑誌『フェーブス』を創刊し、『ペンテジレーア』の一部を載せたが、ゲーテは驚きながらも理解できなかったと返信した。同年12月には反ナポレオン蜂起に影響を受けて『ヘルマンの戦い』を完成させた。

1809年11月からはベルリンに移り、死までそこで過ごした。1810年4月に短編集が出て、『ミヒャエル・コールハース』などが収められた。同年10月には『ベルリン夕刊新聞』を創刊したが、翌年春に検閲が厳しくなって廃刊となり、就職の見込みもなくなった。『ホンブルクの公子フリードリヒ』を完成させたが、1814年まで上演を禁じられた。生活は苦しく、世間にも認められず、自殺を決意して、癌を患う人妻ヘンリエッテ・フォーゲルとともに、1811年11月21日、ポツダム近郊のヴァン湖畔でピストル自殺した。

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