伝記
アムル・イブン・アル=アースは、イスラーム初期の政治家・武将で、パレスティナとエジプトの征服者として知られる。573年ごろにメッカで生まれ、クライシュ族のサフム家に属した。母は過去に暗い噂のある女性で、実の父はウマイヤ家のアブー・スフヤーンだったとする説もあるが、確かなことは分からない。若いころは隊商を率いて各地を旅する商人で、エルサレムやエジプトを訪れて地理に通じた。この経験が後の遠征で生きることになる。
ムハンマドが布教を始めると、アムルはイスラームに強く反対した。クライシュ族の指導者たちからアビシニアに送られ、そこへ逃れたムスリムを引き渡すよう王に求めたが、王は保護を理由に断り、失意のうちに帰ったと伝えられる。624年のバドルの戦いにも加わり、625年のウフドの戦いではクライシュ軍の一隊を率いてメッカ側の勝利に貢献した。しかし628年のフダイビーヤの和議の後、イスラームに改宗する決意を固め、629年にムスリムとなった。ムハンマドは過去の罪はイスラームによって消えると述べて彼を安心させたという。改宗後は商人としての経歴を買われ、メディナからシリアへ向かう道筋の諸部族から税を集める役を任され、オマーンの支配者たちにイスラームを勧める使節も務めた。
ムハンマドの死後、アムルはアブー・バクルのもとでシリア遠征軍の司令官の一人となった。商人時代に知った道を通ってガザへ向かい、634年にはその付近のダーティンで東ローマ軍を破ったとされる。ダマスクスの包囲戦にも加わった。ヤルムークの戦いなどで東ローマ軍が敗れたのち、ヨルダンやパレスティナの征服を進め、638年にはエルサレムを包囲して降伏させた。続いてカリフのウマルにエジプト遠征を進言した。ウマルはためらい、いったん許可したのち取り消す書簡を送ったが、アムルは国境を越えるまで書簡を開かず、越えた後に開いて、すでに入国していることを理由に進軍を続けたという。
率いた兵はわずか4千騎であったが、東ローマの支配を嫌う現地のコプト派キリスト教徒の支持もあり、征服は比較的容易だった。640年2月にペルシウムを攻略し、7月にはヘリオポリス近郊で東ローマ軍を破った。641年4月にバビュロン城を陥落させ、5月にはナイルデルタの要衝ニキウを降した。本国からの援軍を加えた2万の軍でアレクサンドリアを囲むと、5万の東ローマ軍が籠城していたが、同年11月8日に東ローマ側の指揮官キルスがアレクサンドリアで降伏、翌年9月に東ローマ軍はエジプトから撤退した。アムルはさらにリビアのバルカまで進んで住民を服従させた。646年に東ローマ帝国が奪回を図った際にも、これを撃退した。
統治の拠点としてバビュロン城に近い地にミスル・アル・フスタートの軍営都市を築いた。これが現在のカイロの原型とされる。中心に建てたアムル・モスクはアフリカ大陸最古のモスクといわれ、古代のナイル川と紅海を結ぶ運河も浚渫して復興した。しかし収益が不十分とみたウマルは上エジプトに別の総督を置き、ウスマーンの時代にはアムルは召喚された。のちの内乱ではシリア総督ムアーウィヤを支えてアリーに対抗し、661年に成立したウマイヤ朝のもとで再びエジプトの統治を任されたとされる。没年は664年とされるが、663年とする記述もあり、フスタートで亡くなったと伝わる。
同じ年に亡くなった人物
- カンタベリーのデウスデディトゥス (664年没)
- Swithhelm of Essex (664年)
- エオチェンベルート (664年)
- 玄奘 (664年没)
- ケッド (664年)
同じ地域に関係する人物
- モハメド・アブデルワハブ (2006年没)
- カーイム (1459年没)
- アシュラフ・バルスバーイ (1438年没)
- スレイマン・パシャ・アル・フランサーウィー (1860年没)
- ムハンマド・ブン・イドリース・シャーフィイー (820年没)