伝記
アシュラフ・バルスバーイは、エジプトを支配したブルジー・マムルーク朝の第9代スルタンで、在位は1422年から1438年までである。生まれはチェルケス人で、この王朝の初代スルタンであるザーヒル・バルクークに仕えたマムルークであった。生年は分かっていない。バルクークの死後、この王朝では幼い君主が相次いで内紛が絶えず、スルタンの廃位と暗殺が続いていた。
バルスバーイは、1418年5月2日にトリポリの総督に任じられた。のちに、10歳か11歳で即位したザーヒル・タタールの子ムハンマドの後見人となった。その後、アミールたちが3つの派に分かれて争い、スルタンのマムルークを支持する一派に対して、バルスバーイとタリバーイが反対した。2人は力を得て、バルスバーイが摂政に、タリバーイが軍の総司令官となった。アレッポ総督の反乱を鎮めて何人かのアミールを投獄したが、バルスバーイとタリバーイの緊張は高まり、バルスバーイが勝って、タリバーイはアレクサンドリアに投獄された。ダマスカス総督らの支持を得たバルスバーイは、1422年4月1日にムハンマドを廃し、自らスルタンに即位した。
16年にわたる治世は、マムルーク朝としては長く、比較的安定していた。貪欲で気が短いという評判があった一方、貧しい人々やスーフィーには気前がよかった。国家の行政改革にも取り組み、紅海の貿易の独占権をエジプトにもたらし、インド洋の交易路を、カイロに近いジッダ経由に変えて、砂糖とコショウを国家の専売にした。1424年から1426年には、キプロスに侵攻して征服し、国王ジャヌスを捕らえて貢納を約束させた。1425年には、イエメンを支配していたラスール朝を攻めてヒジャーズ地方を奪い、1426年にはかつて栄えたアイザーブの港を完全に破壊した。ティムール朝に対しては、貢納の拒否や使者の追い返しなど、強気の姿勢で臨み、ティムール朝や、その友好国である白羊朝と対立した。こうした収入に支えられて、1424年にはカイロのムイッズ通りにマドラサとモスクの複合施設を建てた。1430年には、エジプトを飢饉と疫病が襲った。1432年には北墓地に霊廟の複合施設を建て、1437年には北の町ハンカにモスクを築き、同じ年に、ティムール朝の支援を受けた白羊朝と、ジャーニー・ベイの連合軍に大勝した。
ティムール朝の君主シャー・ルフは、支援していた白羊朝などが大敗したのを見て、自ら遠征を決意した。バルスバーイもティムール朝との直接対決の準備を進めていたが、決戦の直前の1438年に急死した。遺言では息子のユースフを後継者に望んだが、配下のザーヒル・ジャクマクがユースフを廃して即位し、世襲はならなかった。この中興の英主を失ったマムルーク朝では、ふたたび継承争いが頻発して急速に衰え、彼の死から約80年後の1517年に、オスマン朝のセリム1世に滅ぼされた。
同じ年に亡くなった人物
- マージェリー・ケンプ (1438年)
- エルンスト (バイエルン公) (1438年没)
- マハー・テーヴィ (1438年)
- リシャール・デタンプ (1438年没)
- ジャック2世 (ラ・マルシュ伯) (1438年没)
同じ地域に関係する人物
- ファティア・エンクルマ (2007年没)
- サーリフ・サーリフ (1360年没)
- アル=アズィーズ・ウスマーン (1198年没)
- ファリダ (エジプト王妃) (1988年没)
- アムル・イブン・アル=アース (664年没)