伝記
ピョートル・イヴァーノヴィチ・バグラチオンは、1765年7月10日に生まれ、1812年9月に没したロシア帝国の軍人であり、貴族である。ナポレオン戦争のうち、ロシア遠征(祖国戦争)では、ロシア軍の将軍として第2軍を率いた。没日は9月12日とも9月24日ともいわれる。
グルジアのカルトリ王国のバグラティオニ朝の後裔で、曾祖父はカルトリ王イエセである。北カフカースのキジルヤールで生まれた。父イヴァーネは、グルジアの王子でロシア軍の大佐を務め、弟のロマンも将軍となった。ロシア語とドイツ語を学び、ペルシア語、トルコ語、アルメニア語、グルジア語は父から教わったが、他のロシア貴族と違ってフランス語は知らなかった。1783年にロシア軍に入り、アストラハン歩兵連隊のカフカース・マスケット部隊に配属され、同年に軍曹に昇進した。1788年にはトルコとの戦争に従軍し、オチャコフの攻囲に加わって大尉まで昇進した。1791年からキエフ騎馬猟兵連隊で勤務し、1794年にポーランドのコシチューシコの蜂起の鎮圧に加わった。武勲をスヴォーロフ将軍に認められ、同年に中佐に昇進した。1797年に猟兵連隊長となり、1799年に少将に昇進して、スヴォーロフの指揮するイタリアとスイスの戦線に同道し、ブレシアの攻略に成功した。この遠征ではベルガモの攻略、アッダ川、トレッビア川、ノーヴィなどの戦いにも加わった。
1800年に皇帝パーヴェルは、公の称号を認め、ポチョムキンの姪エカチェリーナ・スカヴロンスカヤと結婚させたが、結婚は失敗に終わった。若い妻は旅を好み、1805年にウィーンへ去った。同年11月に中将に昇進し、ホラブルムの戦いでは、5倍の敵と戦い、半数を失いながらも、クトゥーゾフ将軍の本営の退却を援護し、敵を退けた。12月2日のアウステルリッツの戦いでは、ランヌらのフランス軍と対峙した。敗北後も、1807年2月のアイラウの戦い、6月のフリートラントの戦いなどに転戦して、勇猛果敢に指揮した。1808年のフィンランド戦争では第21歩兵師団を率い、凍結したフィンランド湾を横断する大胆な行軍により、オーランド諸島を奪取した。1809年にはモルダヴィア軍を率いてオスマン帝国と戦い、歩兵大将に任命された。こうした活躍により、トルストイの小説『戦争と平和』の脇役としても登場することになった。
1812年のナポレオンのロシア侵攻では、西部第2軍を指揮したが、モギリョフで敗れ、バルクライ・ド・トーリ指揮下の主力部隊に編入された。バルクライが焦土を伴う後退を提案し、皇帝が承認したのに対し、バグラチオンは、大きな戦いでフランス軍と対決することを望んだ。後任のクトゥーゾフも後退の方針を続けたが、モスクワ近郊のボロジノの戦いで、9月7日に軍の左翼を指揮して、致命傷を負った。叔母の所領であるジーミ村で亡くなった。皇帝ニコライ1世はボロジノの戦場に記念碑を建て、遺骸は1839年にボロジノの戦場へ移されて葬られた。1944年にソ連軍が始めた大攻勢には、スターリンによってバグラチオン作戦の名が付けられ、戦後はソ連が東プロイセンの都市アイラウを、彼にちなんでバグラティオノフスクと改称した。
同じ年に亡くなった人物
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- リチャード・カーワン (1812年没)
- マイアー・アムシェル・ロートシルト (1812年没)
- シュネウル・ザルマン (1812年)
- Juana Galan (1812年)
同じ地域に関係する人物
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- ヘルムート・ヴァイトリング (1955年没)
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