伝記
アンドレイ・ボゴリュブスキーは、ウラジーミル大公(在位1157年から1174年)である。1111年ごろ、父ユーリー・ドルゴルーキーと、ポロヴェツ(クマン人)のハーン、アエパの娘とのあいだに生まれた。フセヴォロド大巣公は異母弟にあたる。父は、アンドレイをキエフ近郊のヴィシゴロドの公とした。アンドレイは、1149年に父がキエフを一時奪ったときに、これに同行している。
1155年、アンドレイは父の配置したヴィシゴロドを無断で離れ、北のウラジーミルへ向かった。その際、コンスタンティノープルから伝わった聖母のイコンを持ち出し、ウラジーミルに安置した。キエフの年代記はこれを盗みと非難したが、スーズダリの年代記は判断を示していない。1157年に父が没すると、ロストフ・スーズダリ公となった。1158年には町の防備と生神女就寝大聖堂の建設を始めた。1162年には、弟のミハイルとフセヴォロドをロストフとスーズダリから追い出し、父の領地をウラジーミル・スーズダリとして自分ひとりの支配のもとにまとめた。弟たちは、父の2番目の妻であった彼らの母とともに、ビザンツ帝国へ追放された。首都を貴族の力の強いスーズダリから、クリャージマ川に面した新興の町ウラジーミルに移し、大公を名のった。自身はウラジーミル北東のボゴリュボヴォ村に居城を築いて住み、「ボゴリュブスキー」という通称はこれに由来する。1162年か1164年には、ウラジーミルに独立した府主教座を置くことを求めてコンスタンティノープルに使節を送ったが、総主教に退けられた。1164年にはヴォルガ・ブルガールを攻めて勝ったが、息子が戦死したともされ、1165年にはその供養のためにネルリ川の執り成し教会を建てたという。
1169年3月、アンドレイの軍は、息子のムスチスラフら11人の公に率いられてキエフを攻め、3日間にわたる略奪と破壊で町を荒らした。教会や修道院も襲われ、イコンや書物、祭服が奪われた。アンドレイ自身は攻撃に加わらず、ウラジーミル・スーズダリにとどまっていた。アンドレイはキエフ大公とはならず、弟のグレプをキエフ公に据えて、自分の支配を築こうとしたが、この優位は2年足らずで、1171年1月20日のグレプの死とともに終わった。1170年のノヴゴロド包囲は失敗に終わったが、のちにこの交易の中心地を封鎖して、1171年に息子ユーリーをノヴゴロド公の座につけた。グレプの死でキエフの継承をめぐる危機が起こり、アンドレイは2年にわたる戦いに巻き込まれた。スモレンスクのロスチスラヴィチ家とヴォルィニのイジャスラヴィチ家がキエフの座を握ると、アンドレイは1173年に新たな連合軍を編成してヴィシゴロドへ進軍したが、スーズダリとチェルニゴフの連合軍は大敗した。
大公権を強め、専制君主たらんとしたアンドレイは、貴族たちとの対立を深めた。1174年6月28日から29日にかけての夜、貴族ら約20人が寝所に押し入り、彼を殺した。年代記は右腕が切られたと記すが、1965年の遺体の調査では、左腕の骨に多くの切り傷が見つかった。ウラジーミル大公位は異母弟のミハイル1世が継いだ。ノヴゴロドの人々は、アンドレイの死の直後に、その子ユーリーを追い出した。長男イジャスラフと次男ムスチスラフは、アンドレイより先に亡くなった。ユーリー・ボゴリュブスキーは、1185年にグルジア王国の女王タマルと結婚して王配となったが、1188年に離縁され、流罪となった。アンドレイは1702年にロシア正教会で聖人とされた。
同じ年に亡くなった人物
- ヌールッディーン (1174年没)
- ヴラジスラフ2世 (1174年没)
- エバラール・デ・バレス (1174年)
- アモーリー1世 (エルサレム王) (1174年没)
- ユーディト・フォン・テューリンゲン (1174年)
同じ地域に関係する人物
- ワシーリー・シュリギン (1976年没)
- マルファ・ソバーキナ (1571年没)
- アレクサンドル・デデュシコ (2007年没)
- マリヤ・テムリュコヴナ (1569年没)
- アレクセイ・プロクロロフ (2008年没)