HISTORICAL PERSON · 紀元前450年没

キモン

アテナイの政治家・将軍。デロス同盟軍を率いエウリュメドン川の戦いでペルシア軍に大勝したが、後に陶片追放され、キュプロス遠征中に病死した。

生涯
紀元前450年没
死亡地
キプロス(ファマグスタ地区 / サラミス)
出生地
アテナイ(アテナイ)
出典
世界地図
キプロス(ファマグスタ地区)

伝記

キモンは、紀元前510年に生まれ前450年に没した、アテナイの政治家・将軍である。マラトンの戦いの英雄ミルティアデスと、トラキア王オロロスの娘ヘゲシュピレの子で、歴史家トゥキュディデスとは親戚にあたる。ペルシア戦争後のアテナイの覇権と、いわゆるアテナイ帝国の形成に大きな役割を果たした。

若い頃、父がパロス島攻略の失敗で国家への背信を問われ、50タラントンもの罰金を課された。払えない父は投獄されて紀元前489年に獄死し、負債は子のキモンが受け継いだ。そこへ富豪カリアスが、姉(または異母姉)エルピニケを譲れば負債を肩代わりしようと持ちかけた。キモンは拒んだが、エルピニケ自身が弟を父のような目に遭わせまいとして受け入れたという。キモンは後に名門アルクメオン家のイソディケと再婚し、双子のラケダイモニオスとエレウス、続いてテッサロスをもうけた。この二つの結婚は、第一人者テミストクレスに対抗するための、キモン家・アルクメオン家・カリアス家による貴族連合だったとされる。子の名が外国めいているため、ペリクレスから批判されたという。

キモンはフィライダイ氏族に属し、ラキアダイ区の出身である。祖父の同名のキモンは四頭立て戦車でオリンピア競技に三度優勝し、ペイシストラトスの息子たちに暗殺されたという。若い頃のキモンは放縦で大酒飲み、粗野な男との評判があり、その点ではアテナイ人よりスパルタ人に似ていると言われた。キモンはサラミスの海戦で勇敢さを示したとされ、紀元前479年にはスパルタへの使節団の一員にも挙げられている。紀元前477年に将軍に選ばれた。アリステイデスとともにビュザンティオンからスパルタのパウサニアスを追い出し、デロス同盟軍を率いて、紀元前463年まで同盟のほとんどの作戦を主導した。紀元前475年(一説に前476年)にエイオンを落とし、スキュロス島を攻略して島の住民を追い出し、帰国の際には英雄テーセウスの骨をアテナイに持ち帰った。紀元前469年または前466年には、パンヒュリアのエウリュメドン川でペルシアの陸海軍に大勝し、ファセリスなど多くの市が同盟に加わった。この戦いでは、陸海の軍でペルシアの陣営を奪い、フェニキア人が漕ぐ200隻の三段櫂船からなる艦隊を壊滅させるか捕獲したとされる。紀元前465年に鉱山をめぐってタソスが反乱を起こすと、艦隊で破って市を包囲した。

しかし紀元前463年、マケドニア王アレクサンドロス1世から賄賂を受けたとしてペリクレスらに告訴された。無罪にはなったが、スパルタでヘロットが蜂起すると、反対を押し切って紀元前462年頃に4000人の重装歩兵を率いて援軍に赴いた。ところがアテナイ軍だけが帰国を命じられ、この侮辱によって政治的信用を失い、紀元前461年に10年間の陶片追放となった。その間にエピアルテスとペリクレスらが、貴族派の拠点アレオパゴス会議の力を削いで民主化を進めた。

第一次ペロポネソス戦争のさなか、アテナイは紀元前451年にキモンを呼び戻し、彼はスパルタと5年の休戦を結んだ。翌年、キュプロス島のギリシア諸都市を助けるため、200隻の艦隊を率いて遠征し、島の大部分を制圧してキティオンを包囲したが、その最中に病死した。遠征軍は撤退を決め、サラミスでペルシア軍を破って帰国した。キモンはアテナイに葬られ、人々は悲しんで記念碑を立てた。生前は気前がよく、農地に柵を設けず収穫物を人に取らせ、食事も施したと伝わる。

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