伝記
イルデフォンソ(イルデフォンスス)は、7世紀のスペイン、トレドで大司教を務めた聖職者であり、音楽家、詩人、ベネディクト会士としても知られる。トレドの守護聖人とされ、聖母マリアを深く敬った人物である。生年は606年とも607年ともいわれ、没年は667年で、1月23日に没したとされる。
生まれはトレドで、ゲルマン系の家柄の出身であり、西ゴートの王家に連なる家のひとつに属していたという。トレド司教エウゲニウス3世の甥にあたるとする伝承があり、その人物が教育を始めたとも伝えられる。セビーリャではイシドールスのもとで教育を受けたともいわれる。後年の著作の文体や、同時代の人物について下した評からは、すぐれた文学的教養を身につけていたことがうかがえる。幼いころにトレド近郊のアガリ修道院に、両親の意に反して入ったとされ、修道士の道を志したことになる。632年から633年ごろには、トレド司教エラディウスによって助祭に叙階されたと、本人が書き残している。修道院にいた間に、相続した財産をあてて女子修道院を創設したという。650年ごろとされるが年は定かでない時期に修道院長に選ばれ、トレド教会会議のうち第8回と第9回では修道院長として署名している。第10回(656年)には署名が見られない。エウゲニウス3世が没すると、657年にトレドの大司教に選ばれた。国王レケスウィントに強いられて、その座についたとされる。以後およそ9年間にわたって司教区を統括し、スペインの典礼の見直しを行ったことで知られる。バルセロナ司教キリクスと交わした書簡では、自分の時代の困難を嘆いている。後世の伝記は、そうした事情のために、いくつかの著作が未完のままになったと記している。
著作のうち主著は『聖母マリアの純潔処女性』である。ヨウィニアヌスとヘルウィディウス、さらに名の伝わらないユダヤ人という三人の異端者を論駁する内容で、祈りの言葉と12章からなる。文体は入念で、聖母への熱意と敬愛にあふれていると評される。スペイン教会で最初に発せられた主要文書とも評され、中世を通じて広く読まれたとされる。このほか『著名人伝』も書いており、トレド教会の地位を称揚する意図があったと見られている。現存する著作は全部で4つである。
聖母にまつわる奇蹟の伝承も名高い。665年12月18日の夜、イルデフォンソが聖職者たちと聖堂へ賛歌を歌いに行くと、聖堂がまばゆい光に満ちていた。人々は恐れて逃げ去ったが、イルデフォンソと二人の助祭だけは祭壇に進んだ。司教の座には聖母マリアが座り、乙女たちが天上の歌を歌っていたという。聖母は「あなたは私の司祭であり、忠実な書記である」と告げ、わが子から送られた式服を自ら着せて、聖母の祝日にだけ着るよう命じたと伝えられる。この出来事を記念する祝日は、トレド教会会議で定められたといわれる。トレド大聖堂では、聖母が足を置いたとされる石が今も巡礼者に敬われている。イスラム支配のもとで聖堂がモスクになった時代にも、この場所と石は聖母に結びつく聖地として丁重に扱われたという。
没後は、トレドのサンタ・レオカディア聖堂に葬られ、のちにサモラへ移されたとされる。その生涯は、同時代人で2代後のトレド司教となったユリアヌスが記した頌徳文を主な拠り所とし、奇蹟を含む後世の伝記は伝説的な色合いを帯びている。トレドで活動した画家エル・グレコの宗教画にも、しばしば登場する。ロペ・デ・ベガは、彼を主人公にした戯曲で「聖母の司祭」と呼んだ。
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