伝記
エンリケ3世は、1379年10月4日にブルゴスで生まれ、1406年12月25日にトレドで没した、カスティーリャ王国(トラスタマラ朝)の国王である。在位は1390年から1406年まで。「病弱王」と呼ばれる。父はカスティーリャ王フアン1世、母はアラゴン王ペドロ4世の王女レオノールで、その長男であった。のちのアラゴン王フェルナンド1世(アンテケラ公フェルナンド)は弟にあたる。生まれて間もなく、カスティーリャとポルトガルの和平条約にもとづき、ポルトガルの王位継承者ベアトリスと婚約したが、1382年に父が妻を失ったため、ベアトリスと結婚したのは父のほうで、この婚約は実現しなかった。
1388年9月17日、バイヨンヌの条約にもとづき、パレンシアの聖アントリン大聖堂で、いとこにあたるカタリナ(キャサリン)と結婚した。カタリナはランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの娘で、母コンスタンサはペドロ1世の娘であった。この婚姻は、ペドロ1世の死後に続いた王位をめぐる争いを収め、トラスタマラ朝の正統性を固め、イングランドとカスティーリャの和平をもたらした。エンリケはブリビエスカの議会の同意を得て、結婚と同時にアストゥリアス公の称号を受け、この称号を最初に帯びた王太子となった。1390年には父が王位を譲ることを考えたが、顧問会議に止められた。同じ年の10月に父が落馬で亡くなり、エンリケは11歳で王に宣言された。実際の政治を自ら行ったのは1393年8月2日からで、13歳であった。
エンリケ3世は貴族を鎮め、下級貴族を顧問会議に登用して王権を回復し、有力な親族を遠ざけた。前の王たちが議会に与えていた特権を廃止し、都市にコレヒドール(国王代官)を派遣し、王国の財政を立て直した。1391年にはユダヤ人への暴力がとくにひどかったが、そのような暴力を禁じる勅令を何度か出して、迫害を減らした。1396年にはポルトガルがバダホスを攻めて侵攻を始めたが、これを食い止めた。海軍はイングランドに何度か勝ち、1399年(1400年とも)には艦隊を送って北アフリカのテトゥワンの海賊の拠点を破壊した。1402年にはフランスの探検家ジャン・ド・ベタンクールを送り、カナリア諸島の植民を始め、8月15日にはポルトガル王ジョアン1世と休戦を結んだ。ティムールにも2度使節を送り、2度目の使節の旅は、ルイ・ゴンサレス・デ・クラビホが書物に記した。
教皇ベネディクトゥス13世の主張を支持し、ナスル朝グラナダへの戦いを再開して、1406年にコレハレスの戦いで大きな勝利を収めた。体調が悪くなってからは、権力の一部を弟のフェルナンドに委ねていた。1406年12月25日、グラナダ攻めの準備をしているさなかに、トレドで27歳で亡くなった。遺体はトレド大聖堂の新王の礼拝堂に葬られた。カタリナとのあいだには1男2女がおり、1405年生まれの長男フアン2世が王位を継いだ。まだ2歳に満たなかったため、カタリナと弟フェルナンドが摂政を務めた。
同じ年に亡くなった人物
- イブン・ハルドゥーン (1406年没)
- ロバート3世 (スコットランド王) (1406年没)
- ヴィルヘルム (オーストリア公) (1406年没)
- クラウス・スリューテル (1406年)
- ムタワッキル1世 (1406年(推定))
同じ地域に関係する人物
- アルフォンソ・サルメロン (1585年没)
- アルフォンソ6世 (カスティーリャ王) (1109年没)
- Gregorio Maria Aguirre y Garcia (1913年没)
- アロンソ・ベルゲーテ (1561年没)
- Enrique Reig y Casanova (1927年没)