伝記
ロバート・フルトンは、アメリカ合衆国の技術者で発明家である。1765年11月14日に生まれ、1815年2月24日に没した。世界初の実用的な潜水艦ノーティラス号を設計し、ハドソン川で蒸気船の実験と実用化に成功したことで有名である。1810年ごろに作った機雷は、最初の係維式触角機雷で、最初の近代的機雷といわれる。
ペンシルベニア州の農場に生まれた。父はロバート・フルトン、母はメアリー・スミスで、比較的裕福な家の出であった。3人の姉妹と弟がいた。12歳ごろ、蒸気機関と蒸気船の発想に興味を抱いたとされる。6年間フィラデルフィアで肖像画や風景画を描き、家に仕送りをした。1785年に父が亡くなると、ピッツバーグ近郊に農場を買い、母と家族を住まわせた。1786年の初め、結核の症状が出て、医者に海の旅を勧められ、秋に英国へ渡った。そのまま約20年間ヨーロッパで暮らすことになる。かねて文通していた画家ベンジャミン・ウエストの弟子となり、その家に数年住んで絵を学んだ。肖像画や風景画の注文を多く得て生計を立てたが、産業革命による変革期の英国で、関心は絵から産業技術へと移った。
「運河熱」に巻き込まれ、1793年から閘門ではなく斜面を使う運河の構想を温め、1794年に特許を取った。しゅんせつ機械などの特許も取り、運河の水位に関する機構や大理石切断用の鋸でも特許を取った。マンチェスターで実地の知識を得るうちに、綿製造業者のロバート・オーウェンと親交を結んだが、実際の仕事では成功せず、契約を手放した。1793年にはすでに蒸気船の計画を米英両政府に提案していた。1796年に運河建設の論文を書き、ブリッジウォーター公のために、船の建造にも携わったが、外輪が運河の粘土の内張りを傷める恐れがあって、実験は放棄された。
1797年にはナポレオン戦争に沸くフランスへ渡った。パリではすでに発明家として知られ、フランス語とドイツ語、数学と化学を学び、パノラマ画の展示もした。世界初の手動式潜水艦ノーティラスを設計して政府に売り込み、英国侵攻の兵員輸送用の曳き舟として蒸気船を試作して売り込んだが、いずれも失敗した。このとき知り合った駐仏米国公使ロバート・リビングストンの援助で、1803年8月9日に、船長31メートル、左右の舷側に外輪を備える外輪船をセーヌ川で試走させ、時速2.9マイルで流れをさかのぼる能力を示した。しかし、フランス政府に建造計画を重ねて売り込んでも採用されず、1804年に英国に戻り、ここでも良い成果が得られなかったため、1806年に母国へ戻った。
ほぼ同時期に帰国したリビングストンの援助で、ハドソン川の蒸気船を建造した。英国の会社に注文していた蒸気機関が届き、船長42.8メートル、船幅4.3メートル、排水量約80トンで、20馬力の機関を備えた細長い船が完成した。リビングストンの所有地の名にちなんで「クラーモント」と呼ばれた。当時の蒸気船はまともに動くものがほとんどなく、1807年の試運転までは、「フルトンの愚行」と呼ばれていた。1807年8月17日、ニューヨークの岸壁を出た初航海では、始動直後に外輪が突然止まったが、調整後は順調に走り、翌日クラーモントに着いた。オールバニまで32時間で150マイルを逆風で走り、向かい風でも無風でも蒸気機関さえ動けば確実に汽走できることを示して、大成功を収めた。9月4日から週1往復の営業運行を始め、リビングストンの力で、ニューヨーク州の蒸気船による河川運送業の独占免許も得た。
同じ年に亡くなった人物
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- フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブラウンシュヴァイク公) (1815年没)
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