伝記
王勃は、中国の唐代初期の詩人である。字は子安。650年に生まれ、675年とも676年ともされる年に没した。楊炯、盧照鄰、駱賓王とともに「初唐の四傑」と称される。吏部の侍郎であった裴行倹が、この四人を並べて挙げたと伝えられる。
出身は絳州竜門県、現在の山西省運城市河津市にあたる。祖父の王通は隋末の高名な儒学者で、祖父の弟の王績も詩人として知られた。文学で名高い家に生まれ、父は王福畤という。『旧唐書』によれば、六歳で詩を作ることができ、十歳で経書を読み終えたといい、幼くして神童の誉れが高かった。664年に朝散郎となり、ついで高宗の子である沛王李賢の侍読となって、その寵を受けた。
しかし順調な官途は長く続かなかった。諸王のあいだで行われた闘鶏を非難する「檄英王鶏文」(英王は後の中宗)を書いたことが高宗の咎めを受け、出仕を差し止められた。この文は戯れに書いたものだともいわれる。王勃は沛王府を追われ、剣南に左遷された。この沛王府での挫折は、彼の文学を大きく変えたとされ、軽はずみな文体を改め、感情の激しい詩に社会への関心を結びつけるようになった。蜀に旅したときには「遊廟山序」を書き、自然を探る旅人としての自分と、道家にあこがれる志との葛藤を記したといわれ、これが自己を表現した最初の作品とされる。
のちに虢州の参軍となったが、罪を犯した官奴の曹達を匿いきれずに殺してしまい、除名の処分を受けた。死刑になるところを赦されたともいわれるが、官界での居場所は失った。この事件に連座して、父の王福畤は交趾の令に左遷された。王勃は、交趾にいる父を訪ねて南へ向かった。その途上、洪州で南昌都督が滕王閣に開いた宴席で作ったと伝えられるのが、「滕王閣序」とそれに添えた七言古詩である。この序で王勃は、自分を不遇な者として描き、司馬相如になぞらえて、国に尽くしたい強い願いを示した。この序は王勃の絶唱として最も名高く、現在も中国の中学や高校の教材に選ばれている。父に会ったのち、帰路の南海を航行する船から転落して溺死したとされる。二十代の若さで、享年は26歳と伝えられる。
作風には、南朝の遺風を残しながらも、盛唐の詩を予感させる新鮮で自由な発想が見られる。王勃は、美しさを追うあまり内容を欠く隋以来の宮体詩の風潮に反対し、「詩は志を言う」という考えを唱えたという。「綿州北亭群公宴序」や「夏日諸公見尋訪詩序」といった序でも、政治への失望を述べながら、国に忠を尽くしたい思いをにじませた。賦にも優れた成果があったとされる。「杜少府の任に蜀州に之くを送る」の詩は『唐詩三百首』に選ばれている。著作に『王子安集』16巻があり、民国の羅振玉が編んだ『王子安集佚文』1巻のほか、日本に伝わる佚文として正倉院の『王勃集残』2巻がある。
同じ年に亡くなった人物
- ジャワイリーヤ・ビント・ハーリス (676年没)
- 室点蜜 (676年没)
- クローヴィス3世 (676年没)
- マンソン・マンツェン (676年没)
- アデオダトゥス2世 (ローマ教皇) (676年没)
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