伝記
室点蜜は、突厥の西面可汗、もしくは葉護(ヤブグ、官名)で、西突厥の祖にあたる人物である。没年は576年ごろとされる。室點蜜、室點密可汗とも書き、姓は阿史那氏、別名を瑟帝米という。東ローマの史料ではディザブロスやシルジブロス、アラブの史料ではシンジブー、突厥の碑文ではイステミ・カガンと呼ばれる人物にあたるとされる。
突厥部の大葉護であった吐務の次男として生まれ、長男は伊利可汗である。兄にあたるブミン(伊利可汗)の葉護として、552年または553年に西方を治めた。突厥の領土の最も西の部分を受け持ち、葉護として自立して事実上の主権をもちながら、可汗の権威を形の上では認めていたという。クシュの死後には、領土を東・中央・西の三つに分けて、それぞれジョタン、アルスラン、シェトゥに与える手配をしたともいう。のちに突厥の史料では、没後に可汗と呼ばれている。
558年、室点蜜は同盟者で娘婿でもあるサーサーン朝の君主ホスロー1世と協同してエフタルを攻撃し、徹底的な打撃を与えた。これによりエフタル領だったシャシュ(石国)、フェルガナ(破洛那国)、サマルカンド(康国)、キシュ(史国)を占領した。この頃にはアヴァールを駆逐し、アランの地へ追いやったともされる。567年ごろまでにエフタルを滅ぼし、残るブハラ(安国)、ウラチューブ(曹国)、マイマルグ(米国)、クーシャーニイク(何国)、カリズム、ベティクなどの地も占領した。
エフタルを破った後、東西の交易を担っていたソグド人の商人たちが、絹の取引で室点蜜に近づいた。彼らは、サーサーン朝の王に会い、ペルシアの領内を通って東ローマと交易する許可を求めたいと望んだ。室点蜜は最初の願いを退けたが、二度目の願いを認め、使節団をサーサーン朝の王のもとへ送った。ところがホスロー1世はこの使者たちを毒殺した。これに怒った室点蜜は、サーサーン朝との関係を悪化させた。そこでソグド人の外交官マニアクが、東ローマの首都コンスタンティノープルへ直接使節を送るよう室点蜜を説得した。568年、マニアクの使節団は東ローマに着き、皇帝ユスティヌス2世に絹を贈り、エフタル攻滅を報告した。さらに、サーサーン朝に対する同盟も提案したという。ユスティヌス2世はこれを受け入れ、東ローマの使節ゼマルコスがマニアクの使節団の帰路に同行して突厥の領土を見聞した。これにより、ソグド人が望んだ絹の直接取引が保証されることになった。室点蜜の事績は、東ローマの使節団の記録を通じて多く知られている。
575年末、室点蜜は使者アナンカステスを東ローマへ送ったが、その直後に亡くなった。東ローマからウァレンティヌスの率いる使節団が来たときには、すでに葬儀が行われていたという。子の玷厥が跡を継ぎ、達頭可汗(タルドゥ・カガン)となった。トルコ語圏では、イステミやイステミハンという名がこの人物を称える名として用いられている。
同じ年に亡くなった人物
- エシュウィネ (ウェセックス王) (676年)
- マンソン・マンツェン (676年没)
- アデオダトゥス2世 (ローマ教皇) (676年没)
- クローヴィス3世 (676年没)
- 王勃 (676年没)
同じ地域に関係する人物
該当人物はまだありません。