伝記
マリア1世は、1734年12月17日にリスボンで生まれ、1816年3月20日にリオ・デ・ジャネイロで没したポルトガルの女王である。在位は1777年から1816年にわたり、ジョゼ1世と王妃マリアナ・ヴィトーリアの長女である。「敬虔女王」と呼ばれる一方、晩年に精神を病んだことから、ブラジルでは「狂女ドナ・マリア」とも呼ばれた。ポルトガルの歴史上、初めて自らの世襲の権利で君臨した女王とされる。
リスボンのリベイラ宮で生まれ、父がまだ王太子だったころは、ベイラ王女であった。父が1750年にジョゼ1世として即位すると、王位継承者となり、ブラジル王女とブラガンサ女公の称号を受けた。ブラガンサ家の父とスペイン・ブルボン家の母のほか、祖母を通じてハプスブルク家などの王家とも血縁があった。1760年6月6日、父の弟である叔父ペドロと結婚した。縁談はほかに、別の叔父であるスペインの王子ルイスや、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世との間にも考えられていた。この結婚は王朝の継続を確実にするとともに、女性の君主の統治能力を疑う声を和らげる効果もあった。実際にはペドロ3世は政務の役には立たなかったが、女王の親密な相談相手として支えになり、1786年5月21日に夫が病没すると、彼女は大きく動揺して精神状態が悪化した。
1777年に即位したが、アメリカ合衆国の独立の影響や、ブラジルの金鉱収入の減少が重なる困難な時期であった。本人と王家の多くが麻疹にかかったため、即位の儀式は延期された。最初の仕事は、ポンバル侯爵の解任と宮廷からの追放である。ポンバルがタヴォラ家に加えた残酷な仕打ちを許していなかった。それでもポンバル時代の官僚を何人も重用した。平和を愛し、社会事業に熱心な女王として、フランス革命の恐怖政治を逃れた多くのフランス貴族に亡命先を与えた。一方で、憂鬱になりやすく宗教心が強く、盗人が教会の聖体を床にまいた際は9日間の喪を宣して政務を延期し、ろうそくを持って贖罪の行列に歩いて参加した。治世には立法、商業、外交の活動が盛んで、1789年にはプロイセンと通商条約を結んだ。リスボン王立科学アカデミーや王立公共図書館、カーザ・ピア、王立海軍アカデミーなどを創設した。1785年1月5日には、ブラジルでの織物などの工業を厳しく制限する勅令を出した。ポンバルの独裁を正して、道路や運河の開設も進めた。
1792年以降は精神の病が重くなり、四男ジョアン王子が摂政となった。ジョージ3世の医師フランシス・ウィリスが治療にあたったが、回復しなかった。1793年にはスペインを援助してフランス革命軍と戦い、当初は優勢だったが、のちに敗北が重なり、スペインは1795年にフランスと和平を結んだ。1807年11月にジュノー将軍の軍勢がポルトガルに侵入すると、摂政ジョアンはイギリスの艦隊に護られた艦隊で、王家とともにブラジルへ避難した。王宮から港へ急ぐ馬車の中で、状況がわからない女王は、「そんなに急いではいけない。国民は、私たちが逃げようとしていると思うでしょう」と言ったと伝わる。1816年に没し、のちに遺体はリスボンのエストレラ大聖堂に移された。
同じ年に亡くなった人物
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